『博覧会の政治学』(追記あり)
引用にあたって、原文にある注番号はすべて省略した。
博覧会と植民地主義について。
博覧会の時代とは、同時に帝国主義の時代であった。これは決して偶然ではない。一九世紀半ばから二〇世紀初頭に至るまで、地球規模で増殖し続けたこの資本主義のスペクタクルは、なによりも帝国主義の巨大なディスプレイ装置であったのだ。博覧会は、テクノロジーの発展を国家の発展、つまりは帝国の拡張に一体化させ、そのなかに大衆の欲望を包み込んでいったのである。このような博覧会と帝国主義の結びつきは、すでに一八五一年のロンドン万博のときから現れてはいた。ロンドン万博を開催するに当たり、主催者側が最初に着手したのは、大英帝国の植民地や自治領からの出品全体を帝国の展示としてまとめあげることであった。それらの植民地には、東インド、セイロン、マルタ、アフリカ西海岸、喜望峰、カナダ、モーリタニア、英領ギアナ、バミューダ諸島、オーストラリア、ニュージーランドなどが含まれていた。水晶宮を訪れた人びとは、最新の産業機械の展示に優るとも劣らない強烈な印象を、これら植民地の展示から受けていったのである。実際、多くの人々が、彼らの「帝国」が大西洋のマルタやフォークランド、黄金海岸やモーリタニアといった地域までを保有していることにこのときはじめて気づいていった。大英帝国の「豊かさ」とイギリス国民の「優越性」が、植民地展示を通して「立証」されていたのである。
(180-181ページ)
ここでは博覧会が問題にされているが、博物館についても同様の問題を指摘することができるだろう。旧宗主国の博物館の収蔵品には旧植民地において「収集」したものが少なくない。
NHKの「アジアの"一等国"」で紹介されていた「人間動物園」について。
万国博における植民地の展示が、文化的、イデオロギー的な傾向を強く帯びはじめるのは、おそらく一八五五年のパリ万博以降のことである。(・・・・・・)
(・・・・・・)
とりわけ八九年のパリ万博は、植民地部門の展示に決定的な方向を与えていくことになる。ここで注目しておきたいのは、このときアンヴァリッドに集められていったフランス領の植民地パビリオン群である。(・・・・・・)
しかし、アンヴァリッドにおける植民地展示のなかで、いっそう重大な意味をもっていたのは、植民地中央宮の裏手から奥に広がっていたセネガルやニュー・カレドニア、仏領西インド諸島、ジャワ島などの原住民集落である。ここでは実際、博覧会の歴史のなかでも最も悪名高いひとつの伝統が姿を現していた。すなわち「人間の展示」、植民地の多数の原住民を博覧会場に連行し、博覧会の開催中、柵で囲われた模造の植民地集落のなかで生活させて展示していくという、一九世紀末の社会進化論と人種差別主義を直裁に表明した展示ジャンルの登場である。このジャンルは、八九年のパリ万博にはじめて登場し、その後、九三年のシカゴ万博にも、二〇世紀初頭のアメリカの万国博にも、また同じころのヨーロッパの博覧会にも、さらには日本の国内博覧会にまでも広く一般化していった。われわれは、博覧会と帝国主義の結びつきをもっとも深刻に示すものとして、この展示ジャンルの発達について検討していかなければならない。(・・・・・・)
八九年のパリ万博に登場する植民地集落は、その一〇年ほど前からブローニュの動植物園、ジャルダン・ダクリマタシオンで行われていた展示方法を大規模に拡大させたものであった。(・・・・・・)これらの展示は、パリッ子たちを大いに刺激し、ジャルダンへの入場者は、八〇年代を通じて急速に増加する。七八年のパリ万博が莫大な赤字を出したことから、大衆動員に直接結びつくような博覧会の「目玉」を求めていた八九年万博の主催者たちが、この「人間動物園」の人気に目を付けないはずはなかった。彼らは、ジャルダンの展示方式をそれこそ国家的規模に拡張し、博覧会展示の新しいジャンルを創出していったのである。
(181-185ページ)
「アジアの"一等国"」にクレームを付けている右派の中には、「人間動物園」というタームを(番組にも登場した)パスカル・ブランシャールがつくったもの、と邪推している面々もおられるようだ。しかし1992年刊の書籍にすでに登場している用語が2008年刊の書籍で初めてつくられた、などといったことはもちろんあるはずがない。(←この一節、追記)
こうして八九年のパリ万博では、会場内に植民地集落が再現され、連れてこられた原住民たちが展示させられていった。彼らは、必要な食糧や生活用具を与えられ、数ヵ月に及ぶ博覧会の開催中、昼も夜も柵で囲われた集落のなかで「生活」させられていくのであった。ポール・グリーンハルによれば、このとき展示されたのは、セネガル人八家族、コンゴ人七家族、ニュー・カレドニア人六家族、さらに多くのジャワ人たちであった。このように原住民たちは家族単位で連れてこられていたが、それぞれの家族が同一部族に属しているとは限らなかった。たとえば、セネガル人集落の場合、八家族は、プルプ族、ゴロフ族、パンバラ族という、それぞれ文化的伝統の異なる部族の出身者で構成されており、同じ「集落」のもの同士でも互いに言葉を通じさせることができなかったという。それにもかかわらず、彼らは単一の「未開人」として、本当な自分たちに馴染みのない儀礼やふるまいを観客の前で演じることを強いられたのである。展示された人々は、最初の一ヵ月が過ぎたころには、博覧会の観客たちが自分たちにどのようなふるまいを望んでいるかを察知し、それにあわせた「演技」を身につけていったようである。こうしてヨーロッパ人の側から見るなら、その植民地主義的な視線に適合するような「人種」の「劣等生」が、眼前の民族学的「実物展示」により「発見」されていくこととなった。
(185-186ページ)
国際博覧会に参加するようになった当初の日本は列強から「まなざされる」対象であった。
このような欧米人のジャポニズムに訴える展示は、第三章でも論じたように、欧米社会の世界を俯瞰するまなざしの前で、日本がみずから、みずからをまなざされる客体として提示していく行為であった。つまりここには、ある種の媚態が、確実に存在していたように思われる。ところが、このような媚態のなかで、日本は、欧米の「近代」が発する帝国主義的なまなざしを見返し、これを相対化していくのではなく、みずからもまた、もうひとつの「近代」として、おのれをまなざしていた欧米と同じように周囲の社会をまなざしはじめるのだ。このまなざしの屈折した展開を、もっとも明瞭なかたちで示していったのは、日本の国内博覧会や海外博覧会への日本の出展のなかに現れはじめる植民地主義的な傾向である。(・・・・・・)
(208ページ)
ちなみにここでいう「媚態」は完全に克服されたわけではない。アメリカ映画に出てくる日本企業の社長室に甲冑が飾ってあったりするとゲンナリするものだが、別に侍の子孫が多数を占めるわけでもない*1野球チームを「サムライJAPAN」と呼ぶようではアメリカ人のステレオタイプを笑えまい。
日本における「人間動物園」の始まり。
実際、この東洋の帝国主義国家は、日露戦争のあたりから、これまで欧米の万国博で見たのと同様の植民地主義的な展示方式を、積極的に国内の博覧会に導入していくようになる。こうした点でひとつの重要な転機となったのは、一九〇三(明治三六)年、大阪・天王寺で四三五万人もの入場者を集めて開催された第五回内国勧業博である。この内国博開催に際しては、「帝国は既に英武を以て世界を驚かし、列強の五伴に列し、高等の地位を占め、軍事に於いては敢て一等国に譲る所なく生産に於いても世界と競争せざるべからず」といった主張が露骨に語られ、このような帝国意識が、いわばその反作用として、自分たちの支配下にある文化に対する差別的な関心を呼びさましていった。こうして、内国博の会場には、すでに日本の植民地となって九年を経ていた台湾の「風俗文化産業の真相を内外人に示し、大に管内諸般の発達を図らむ」と、極彩色の楼門と翼廊をもつ台湾館が建設され、農業及び園芸から土俗、蕃俗に至る一五部門の展示が行われていく。しかもこの博覧会では、学術人類館と呼ばれる展示館が登場するが、これは、「内地に近き異人種を集め、其風俗、器具、生活の模様等を実地に示さんとの趣向にて、北海道のアイヌ五名、台湾生蕃四名、琉球二名、朝鮮二名、支那三名、印度三名、同キリン人種七名、ジャワ三名、バルガリー一名、トルコ一名、アフリカ一名、都合三十二名の男女が、各其国の住所に模したる一定の区域内に団欒しつつ、日常の起居動作を見する」という、パリ万博やアメリカの博覧会における原住民集落と同様の差別主義的なまなざしの装置であった。
(212-213ページ)
ここで「アイヌ」「台湾生蕃」「琉球」だけでなく、すでに「朝鮮」「支那」「印度」「ジャワ」の住民が「展示」されていることは後の「大東亜共栄圏」というスローガンの意味を考えるうえで重要であるし、日本の勢力圏から遠く離れた「トルコ」「アフリカ」までもが「展示」の対象とされていることは、日本が欧米の視線を我がものとしようとしていたことを証ししている。
そして番組でもとりあげられていた1910年の日英博での「展示」。
(・・・・・・)そして、海外の博覧会に目を転じるなら、前述のように、一九一〇年の日英博では、会場の「二箇所は、『アイヌ』村落(約九〇〇坪)及台湾村落(約一三〇〇坪)にして、一は『アイヌ』部落より齎し来りたる数個の茅屋を以て部落を構え、『アイヌ』人之に分居して其の日常の生活を営むが如く設備し、一は蕃社に模して生蕃の住家を造り、蕃社の状況に模し生蕃此の処に生活し、時に相集まりて舞踏したり」という記録が公式報告書に見られ、日本国内や植民地の少数民族の展示が公然と海外に向けて行われていたことが察せられる。
(214ページ)
日中戦争と博覧会。
以上のように、二〇世紀に入ると、日本においても博覧会は、たんに新しい「文明」を垣間見、技術を習得していく場という以上のものになっていた。日清・日露戦争による植民地の獲得と資本主義の発展を背景に、日本の博覧会は、次第に「帝国」としての自国の地位を植民地の「未開」との距離において確認する装置となっていったのである。こうした博覧会の帝国主義的な傾向は、一九三〇年代、中国侵略を正当化する軍事プロパガンダとして博覧会が利用されていくなかでいっそう顕著なものとなる。この時期、満蒙軍事博覧会(三二・三三年)、輝く日本大博覧会(三六年)、聖戦博覧会(三八年)、大東亜建設博覧会(三九年)などが、軍部や新聞社により次々と開催されていた。このうちたとえば三八年の聖戦博では、約二万平方メートルの西宮球場のスタンドを使い、満州で日本軍が進撃していく様子を再現した巨大なパノラマが設営されている。人々は、植民地侵略の過程を臨場感をもって疑似体験していくことで、ますます国家の幻想のなかにおのれを見失っていったのだ。(・・・)
(214-215ページ)
昭和の戦争に弁解の余地があるとすればそれは欧米の植民地主義を背景としてもっていた点である。実際、「大東亜戦争」を正当化しようとする議論は必ず欧米列強の植民地支配を問題にする。だがその植民地主義を批判し、日本の戦争に「一分の理」があったと納得してもらうためにも、近代日本が欧米の差別主義的なまなざしを「見返し、これを相対化」するのではなく同じまなざしを我がものとしようとした、という事実は直視せねばなるまい。
*1:確認したわけじゃないけど、武士の人口比から推定するとそうでしょう。