お返事にお返事
「昭和天皇の政治関与」というエントリに対して「少年犯罪データベースドア」の管賀江留郎氏からお返事をいただいていたことに先日気づいたので、遅ればせながら再反論をば。
まず張作霖爆殺事件の事後処理における昭和天皇の「関与」をめぐってですが、処理の仕方について「具体的」な指示を出したのでなければ政治関与ではない、というのはあまりにも「関与」を限定的に理解しすぎではないでしょうか。研究者の中でも昭和天皇の権力基盤の弱さを強調し、近年の研究動向について「現実以上に天皇の意志が実行に移されたことを強調することになりがち」*1と評価している伊藤之雄・京大教授も田中首相の辞任については「強い政治関与」*2と判断しています。首相の進退に決定的な影響を与えたことが政治関与ではない、と考える理由は私には思いつきません。
あとは「とくに軍事に関して明確な命令があったとは思っていません」とおっしゃっているので、こちらも「とくに軍事」に絞っていくつか事例を挙げましょう。沖縄戦「集団自決」に関する教科書検定や大江健三郎らに対する民事訴訟を契機に沖縄戦がメディアでとりあげられる機会も増えましたから、持久戦を行う方針だった第32軍の戦いぶりに対して45年4月3日、昭和天皇が「現地軍は何故攻勢に出ぬか」「兵力足らざれば逆上陸もやってはどうか」と発言したことは比較的知られているのではないでしょうか。この発言以前から大本営にも北・中飛行場の奪還を求める声があったのは確かですが、梅津参謀総長が作戦部長宮崎周一に第32軍への作戦指導を指示するのはこの「ご下問」を受けてのことです。
もっとも、天皇の「ご下問」がもともと大本営なり政府なりにもあった意見を支持するものである場合、その影響力についての評価は複雑なものとならざるを得ません。山田朗・明治大教授は伊藤教授とは逆に天皇の作戦指導の影響力を強く評価する研究者の代表でしょうが、大和以下の第二艦隊の特攻(天皇が「航空部隊だけの総攻撃か」と下問したことがきっかけとされる)については「むしろ天皇の言葉が利用されたと見た方がよい」と評価してます*3。
しかし「昭和十四年度帝国海軍作戦計画」に対する昭和天皇の修正要求の場合などは、明らかに天皇の意志が軍部の意志を変更させた事例と言えるでしょう。同計画に含まれるマレー半島、シンガポール攻略作戦において上陸地点としてタイのシンゴラ海岸が予定されていた点につき、昭和天皇は「故なく第三国の中立を侵害することは、正義に反する行為である。自分はこのような計画を認めることはできない。考え直せ」と叱責したとされます*4。シンゴラ海岸は「マレー半島中央の狭隘部で、上陸後すぐに半島を横断して西海岸(マラッカ海峡側)に進出できる」*5という条件を備え、かつ「西海岸は東海岸に比べて平坦で、鉄道もあり、兵力の迅速な進撃には有利」*6だったので、陸軍にとってはあくまでシンゴラ海岸という選択肢が好ましかったのです。しかし天皇の意向を受けて、例えばシンガポール攻略の際の上陸予定地点は英領マレーのメルシングが第一とされ、シンゴラについては「情況之を許さば」上陸地点とすることもある、と作戦計画は変更されました*7。
またこれは「命令」ではありませんが、ダンピール海峡で第51師団主力を乗せていた輸送船団が全滅させられた際には、「何故直ぐにマダンへ決心を変えて上陸しなかったのか」と実に具体的な指摘をしたうえで「将来の為には良い教訓になるものと思う」「将来安心の出来る様にやって呉れ」と杉山参謀総長に語っています*8。「将来安心の出来る様にやって呉れ」だけなら形式的な訓示に過ぎませんが、マダンへの退避という具体的な対案まで示して叱責している点が注目に値します。
もちろん「朕自ら近衛師団を率い、此れが鎮定に当たらん」とまで語ったとされる二・二六事件の際の関与に匹敵するようなものだけを問題にするのであれば、そうした事例は極めて限られてくるでしょう。そう、いわゆる「終戦の聖断」を二・二六と併置するのは適切か? ということだって問題になってきます。昭和天皇はかなりギリギリまで「決戦後講和」のシナリオやソ連の仲介による和平に望みをつないでいましたし、「聖断」にしても昭和天皇個人のイニシアティヴではなく木戸幸一ら宮中グループがシナリオを練っていたものです。そのうえで8月9日の御前会議では外務大臣の案に賛成する、というかたちで意志を表明したのであり、二・二六事件の際のような強い言葉は用いていません。
追記:何が言いたいかといえば、要するに「もっと具体的な指示を昭和天皇が出したのは、二・二六と終戦の決定、ただこの二回だけ」というのはなんら実証的根拠のない神話に過ぎない、ってことです。具体性で言うなら阿部内閣組閣の際に陸相を梅津か畑にせよ、と要求したのは極めて「具体的な指示」です。昭和天皇個人のイニシアティヴの強さという点で言っても、この陸相人事に関する介入はポツダム宣言受諾の「聖断」の事例より上でしょう(陸軍側は多田駿を候補として推していました)。このエントリでとりあげた「昭和十四年度帝国海軍作戦計画」の事例も同様です。これに対して「終戦の聖断」はすでにシナリオができあがっていたものです。例えば45年3月16日には松平康昌・内大臣府秘書官長が高木惣吉(海軍少将)に「次期政権は一応Aにやらせて戦争一本で進んで、或る限度に来たとき、HM表面に出られて転換を令せらる。Aが引っこむ、事後の収拾対策にかかる、こういう方式はどうか」と語っています(A=Army 陸軍、HM=His Majesty 天皇)。ポツダム宣言受諾における「聖断」の影響力を二・二六と並び称するのは、伊藤之雄氏のことばを借りれば「現実以上に天皇の意志が実行に移されたことを強調すること」になるでしょう。