『内奏―天皇と政治の近現代』

先日言及した『新・現代歴史学の名著』と一緒に買ってきたもの。「上奏」「奏上」「内奏」「密奏」などさまざまに表現される「奏」の実態や変遷を幕末から近年に至るまでの期間について論じるというもの。ただし分量的には昭和期の「奏」についての記述が圧倒的に多い。これは現代の読者の関心を考えれば当然のことか。第5章、6章が戦後昭和期の「内奏」を主題としており、新憲法下での昭和天皇の政治関与を明らかにしている。タイトルが「内奏」となっているのは、戦前・戦中においては「公文式」「内閣官制」など国家法の枠組みに位置づけられた「法律・勅令など天皇裁可を必要とする公文書の天皇への報告手続き」(11頁)であった「上奏」が現憲法下では消滅し、インフォーマルな政治的慣習であった「内奏」が継続することになったため、幕末期から現代までをカヴァーする本書の一貫した対象になりうるのが「内奏」であった、という事情によるかと思われる。戦前・戦中期においても「内奏」はそのインフォーマルな性格ゆえにいろいろな問題を見出しやすい、ということもあるのかもしれない。
刊行されて間もない本なので、ここでは個人的に興味を引かれた点を二つばかり上げておく程度にしたい。


・陸軍とは異なり海軍は(明治後半以降)一貫して「上奏」という表現を避け「奏上」という表現を用いていた、という点。著者によればこれは海軍の場合統帥部の独立が遅れたという事情に起源を持つようだが、海軍軍令部が強化されて以降も海軍は「上奏」に比べて手続きが簡単な「上奏」(ないし「内奏」)ですまそうとした、とされている。常識的に考えれば、これは海軍(軍令部)がフリーハンドを確保しようとしたものと解釈できるが、そのことが海軍の行動に具体的な影響を与えているのかどうか?
張作霖爆殺事件の処理をめぐり田中義一首相が昭和天皇の不興を買い、辞職した件について。『昭和天皇独白録』では昭和天皇はこの一件への反省にもとづき「内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持ってゐても裁可を与える事に決心した」としていることはよく知られている。他方、昭和天皇がそれ以降も「御下問」を通じて政治や作戦指導に大きな影響力を発揮していたことも、先行研究や本書が明らかにしている通りである。著者は田中首相が「上奏」したというのは昭和天皇の誤解であり、実際には「内奏」(田中首相が用いた用語では「上聞」)であったとする*1。だがこの「誤解」を前提にすれば、「上奏」には必ず裁可を与えながら「内奏」段階ではさまざまな「御下問」を通して内閣や軍部に方針転換を促すことも辞さない態度は、少なくとも主観的には整合的であるということになる。これに対し、もし「上奏」ではなく「内奏」における「御下問」が内閣総辞職に繋がったと天皇が認識していたならば、「天皇の反省も変わっていた可能性がある」(114頁)。著者のこの議論を是とするなら、「戦後の内奏に対しての御下問も変わったかもしれない」(114-115頁)という想定には説得力があるように思われる。この点については、すこし時間が経ってから、先行研究と比較しつつとりあげてみたい。

*1:明示されている資料的根拠は29年6月26日付の牧野伸顕日記。「陛下の御許諾を願ふ積もりか」という牧野内大臣の問いに対し田中首相は「左にあらず、単に上聞に達するまでなり」と答えたという。