『シベリア出兵』

昨日のエントリでアフガニスタン戦争(ソ連による)と日中戦争ヴェトナム戦争の類似性について触れたが、失敗した戦争というのはどれもどこかしら似ているというのはある意味で当たり前のことだろう。今回はシベリア出兵について。N・Bさんご推薦の『シベリア出兵 革命と干渉 1917-1922』(原暉之、筑摩書房)から。

 戦争の目的が明確に知らされなかったのは出征兵土とて同じことである。
 後述するように、治安当局は任務を終わって「凱旋」する帰還兵士の言動を注意深く監視したのであるが、そうした帰還兵士の口からは、たとえば「今度出征ノ兵卒、下士ニ於テ何ノ為ニ出征セシカヲ会得セサル者多シ」とか、「出征シテ奇異ノ感アルハ我軍出兵ノ目的カ過半以上兵卒ニ了解セラレサルニアリ」といった批判の声が聞かれた。それもその筈、上官は部下に対し筋の通った戦争目的の説明をしなかったし、できもしなかった。派遣軍司令部が各兵士に吹き込んだのは次の如き空疎なお題目なのであった。

独逸ハ過激派ヲ煽テ上ゲテ、露国ノ政府ヲ壊シ、罪ナキ人民ヲ虐メテ無理我儘ナル振舞ヲナシ、我連合軍ノ味方ノ「チェック」軍ヲ攻撃シテ居ルノデアル
吾々連合軍ノ目的ハ「チェック」軍ヲ援ケ且ツ困ッテ居ル露国良民ヲ救ヒスタ之ト親交ヲ保ツノデアル

 派遣軍司令部と各師団司令部はそれぞれ手冊を作成して兵士に携帯させた。右に掲げたのは派遣軍司令部の作成になる『兵士ノ心得』の冒頭の二項目である。これらの手冊は、日本軍の任務についてたとえば、「武装セル独、墺俘虜及之ト共同セル無頼ノ者共ノ勢力ヲ駆逐シテ」「憐ナル露国ノ人民ニ安心ヲ与へ」(第三師団司令部版)とか、「過激派及独墺俘虜軍ヲ追ヒ払ッテ其地方ノ良民ヲ救ヒ」(第七師団司令部版)というように記している。
 だが一体、敵=「過激派」と味方=「一般ノ露西亜人」=「良民」とをいかにして識別するのか、そもそも「独襖俘虜軍」など見当たらないではないか、といった当然生まれる素朴な疑問には何ひとつ答えていない。(…)
一般にどんな戦争でも、高い土気と厳正な軍紀が保たれるためには、兵土自身の主体的な戦闘意欲、それを可能にする明確な戦争目的が不可欠であり、上からの強制力だけでは不十分である。ところがこの戦争において日本軍の掲げる目的はまったく不明確であり、兵土を奮起させるところが少ない。当然、士気の低調と軍紀の弛緩が目立った現象となる。このことははじめから顕著で、すでに戦地に赴く鉄道輸送の段階から次のような状況が観察さわている。

宿営間各部隊ノ行動ニ就キテ八部隊長及下士以下ノ素質ニ依リ大ナル径庭アリ 然レ共一般ニ土気発揚シアラサルカ如シ 即チ戦争ノ目的ヲフ解シアラサルノミナラス官費満州旅行位ノ心得ニテ出征シアルモノ大部ヲ占ムルノ有様ナリ 各部隊長モ兵卒愛憎ニ力ヲ用フル為反テ之カ取締十分ナラサルモノアリ

 守備地到着後、越冬態勢に入る時期についても、軍紀の紊乱と頽廃に関しては少なからぬ証言が残されている。現地を視察した衆議院議員慰問団(望月圭介団長、九月二七日浦潮に上陸、一〇月二六日長春にて解散)が「予想以上ノ不軍紀」との印象を漏らしたのはその一例にすぎない。上層部の腐敗ぶりを非難する声も上がった。それによれば、浦潮の某参謀将校は毎日「裸踊り」の観覧にうつつをぬかしている、というのである。
 上から下までの出征軍の軍紀弛緩と頽廃を、内部信発の投書という形で明るみに出そうとした兵土がいたことは一層の注目に価する。投書の主は第三師団の輸卒として出征中の匿名の従軍兵土で、彼はこれを黒竜会の機関誌『亜細亜時論』に送った。(…)
 内容は「はしがき」「動員計画ノ粗漏」「輸送計画ノ杜撰」「軍紀頽廃ノ実例」「最高幹部ノ非常識」「軍紀壊頽ノ原因」「強国ノ兵ニ伍シ難シ」「唯一ノ救済法」の全八節よりなる長文のものである。さらに「軍紀頽廃ノ実例」は「(イ)敬礼ヲ避ケル」(ロ)社会主義ノ気分漲ル」「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」「(ホ)歩哨ノ無価値」の小節に分かれている。
 いまここで全内容をみることはできないが、少しだけ紹介すれば、驚くべき表題のついた(ハ)の項では、「言フニ忍ビヌ話デハアルガ、兵ニ盗賊ノ多キハ第三師団ノ特長デアル」として、村の民家から筒鳥・鶏・豚・牛を盗んでは食べる日本兵の不品行を指摘するとともに、「最高幹部の非常識」の項では、武市に乗り込んできた大井師団長のさながら「敗戦国ノ住民ニ対スル」ようなロシア国民蔑視の態度を指摘する。
 日清戦争に従軍した経験もある投書子には、「軍紀も振粛」し「土気旺盛」だった日清戦争当時と比べ、今回出征軍の「士気壊頽シ命令行ハレズ兵土ハ互ニ盗ミ合ヒ侯ノミナラズ外国人ノモノヲモ盗ミ恬トシテ恥ヅル所之レナキ」実情は驚くことばかりだ。無知の青年将校が理屈に合わない無理なことを命令し、兵土を叱り飛ばす。これに少しでも不平を漏らそうものなら、すぐ「社会主義者」だときめつけ、のけものにする。「コンナ風デ誰ガ命ヲ捨テ戦フモノガアルカ」。投書子が「社会主義ノ気分漲ル」の項でいわんとするのぱ、敵=「過激派」の感化などではなく、指揮官の兵に対する非人間的扱い、それに起因する不満の鬱積のことである。
(…)
 家宅侵入や略奪などの多発は一兵卒が思い余って投書したほどだから、当然各師団司令部や派遺軍司令部の耳にも届いていた。であればこそ、先にみた「兵土ノ心得」には、「無代価デ豚、鶏等ヲ取り囲柵ヤ道具ヲ断リナク薪物ニスル等野蛮ノ振舞ヲ為ストキハ……我日本兵ノ名誉ハ潰レテシマウノデアル」(派進軍司令部版)とか、「勝手ニ人民ノモノヲ使用シテハナラヌ」「野外ニ積デアル牧草ヤ薪ナドデモ勝手ニ之ヲ使ッテハナラヌ」「勝手ニ人民ノ邸宅へ人ッテハナラヌ」(第七師団司令部版)といった戒めの言葉が並んでいるのであろう。しかし、こうした言葉がどれだけの抑制効果を上げたのか。この年の末、中東鉄道付属他のロシア語新聞は日本兵の不品行を伝えている。

日本兵ノ亡状 満州里駅ヨリ東清鉄道ニ達セル報告ニ日本兵ハ薪及鶏類ヲ窃ミス駅員其他ノ家屋ニ出入シテ婦人ヲ辱メタリ(マンチジューリヤ』紙、12・29)
安達駅日本兵ノ亡状 安達駅ニハ同地ニ駐屯セル日本兵ノ亡状ニ困難シ居レリ 是等兵土ハ鶏及薪類ヲ窃ミ又駅員ノ家ニ出入シテ婦人ヲ挑シ居レリ(ノーヴォスチ・ジーズニ紙、12・29)

 右は北満州での事例だが(関東都督府の一報信書に訳載されたものから引用)、軍靴に蹂躙された住民の憤りはどこでも同じである。アムール州ゼーヤ地区でクラスノシチョーコフをしらみつぶしに探し回っていた過程における日本兵の挙動の一齣を、同地区の女教師はのちにこう回想している。

 日本兵は各自の肩に〔地元の猟師から奪った〕山羊の獣皮と毛皮を詰め込んだ袋とをかついでいた。……〔学校では〕宿舎と教室を捜索し、地下室におり、屋根裏にまであがり込んだが何一つ発見できなかった。そのあと村から鶏をひっぱってきて台所でその頭部を打ち割り、その場で羽根をむしって臓物を抜き、調理台の上のバケツで煮た。床や壁が血だらけになった。満腹すると彼らは出ていった。

(pp.420-424、原文の註、ルビを省略したほか(ママ)を付してそのままになっている誤字を訂正した。)


「(ハ)殆ド盗ヲナサザルモノナシ」「(ニ)計手ハ皆泥棒」は、日中戦争からの帰還への言動を陸軍省が調査した報告書にある「戦争に参加した軍人を一々調べたら、皆殺人・強盗・強姦の犯人許りだろう」という一兵士のことばを思い起こさせる。「鉄道輸送の段階」から軍紀の弛緩が観察されたというのも、日中戦争に類例がみられる。戦争の初期に、朝鮮半島経由で華北に向かった部隊に関して「通過部隊ノ軍紀風紀ハ厳粛トハ認メ難シ」とし、服装や態度がだらしない、命令を待たずに下車したり命令があってもなかなか乗車しなかったりする、上官に敬礼しないものが大部分…としている。別の史料によれば、民家に分宿した際「舎主(女)ニ対シ情交ヲ迫リタルモノ」や、夜中に寝ている舎主(女)に酒肴を要求したものがいた、とされている(いずれも吉田裕、『天皇の軍隊と南京事件』、33ページ)。幕府山の捕虜虐殺にかかわった山田支隊の支隊長は、日記にこう記している(37年12月24日)。

一、予備兵のだらしなさ
1、敬礼せず
2、服装 指輪、首巻、脚絆に異様のものを巻く
3、武器被服の手入れ実施せず赤錆、泥まみれ
4、行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曵く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)、銃は天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪

「叉銃」とは小銃を三丁ひと組にして立てることで、行軍中の休憩時などに行なうことになっている。
戦争目的についても「暴戻支那を膺懲」云々としか説明できなかったのが日中戦争であった。「敵」と「良民」の区別が困難で、その結果「良民」にも被害を与えていったのも同じ。


さらに同書471-472ページより。

討伐行動における現地日本軍の露骨に抑圧的な姿勢は、陸軍中央部すら眉をひそめたほどで、福田雅太郎参謀次長は一月二八日、浦潮派遣軍参謀長に宛てて「万一前記ノ趣旨未タ徹底セスシテ徒ニ死傷者ヲ出シ或ハ一方誤リテ日、露両国間ノ感情ヲ害スルカ如キコトアリテハ誠ニ遺憾ナリ」と行き過ぎを戒める訓電を発している。

同様の訓令は日中戦争においても発せられており、当時の軍中央にもその程度の良識はあった証左だと言えるかもしれないが、元はと言えば「目的も敵もはっきりしない戦争」を始めたことが原因なのである。
もっとも、日中戦争に参加した部隊の間にも軍紀に関して違いは当然あり、他方目的も敵もはっきりした戦争なら一切戦争犯罪が発生しないというわけでもない。部隊長の統率力やパーソナリティももちろん軍紀を左右する要因ではある。