1937年の神戸新聞より

以前に「百人斬り」について勉強する過程で1937年秋〜38年初春の地元紙を調べてみたことがあるのですが、今回はいわば「お蔵出し」として当時複写した記事からいくつかご紹介します。なお、日本軍将兵が敵兵を○人斬った、といった報道は珍しくなく、またすでに「百人斬り」裁判との関連で紹介されてもいますので、ここではとりあげません。
(1)1937年11月12日

「百人斬り」否定論者=日本刀否定論者は戦時中の武勇伝報道をことごとく捏造扱いする自虐史観の持ち主であるわけですが、しかし当時のマスコミもべつだん日本刀を超兵器扱いしていたわけではなかった、ということを示す記事です。日本刀にはピンからキリまである、という当たり前のことは報道されていたわけですね。


(2)1937年11月7日

石川達三の『生きている兵隊』には、ショベルで敗残兵をぶち殺す「片山」という名の従軍僧が登場します。石川は第16師団の兵士に取材して『生きている兵隊』を執筆しており、小説の描写が実際の行軍過程とよく一致していることが知られていますが、それをふまえてもなおにわかには実在を信じがたいキャラクターです。しかし(殺したわけではなく「生捕り」ですが)従軍僧の「武勇伝」が報道される例は実在したということになります。


(3)1937年12月10日

日中戦争には将校のみならず下士官・兵士までもがしばしば日本刀を携えて従軍したことは『「百人斬り競争」と南京事件』(笠原十九司、大月書店)などでも指摘されていましたが、「先祖伝来の槍」を抱えて出征した下士官についての報道です。なお、記事を信じるならば中国軍の部隊は降伏勧告に応じようとしていたところ、日本軍機の来襲に怯えて逃げ出したものと推測できます。戦争犯罪と断じることができるかどうかはともかく、正々堂々の渡り合いでないという誹りは免れないのではないでしょうか。


(4)1937年12月10日

「脇坂部隊長」とは第9師団歩兵第36連隊の指揮官、脇坂大佐(当時)のことです。神戸新聞にとって「郷土」の部隊にあたる姫路第10師団は南京攻略戦には参加していませんので、お隣京都の第16師団の「活躍」ぶりに比べると影が薄かったものと思われます。そこで、南京攻略の一番槍争いをしていた歩36連隊長の弟一家が地元にいる、ということまでニュースになったわけです。


(5)1937年12月25日

通州事件に関する賠償その他の問題が「円満に解決」した、という記事です。事件から75年以上もたつのに通州事件のことを持ち出す日本人がいたら、「円満に解決したんじゃなかったのかよ! 蒸し返す気なのか?」と言ってやりましょう。