秦氏の論法について私もひとこと

http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20130417/1366223210
scopedog さんのエントリをふまえて。
中公新書の『南京事件』における秦氏の犠牲者数推定は、その推定手法から判断する限り、蓋然性と不法性が相当に高いケースに絞るという方針でなされているものと言えます。同じ『南京事件』というタイトルの新書(岩波)を出している笠原氏の場合には蓋然性や不法性を判断する際にもう少し緩い基準を用いています。これ自体は事実認識における相違というより歴史記述をめぐる理念の相違とでも言うべきことでしょう。「最低限これくらいのことはあった、と確実に言える」ことを記述しようとするのか、それとも確実性では劣るものの出来事の実際のスケールにはより近いかもしれない記述をめざすのか。私自身は、前者のような態度が史実の矮小化に利用されることを懸念しますし、その懸念は(scopedog さんも指摘されているような)事実によって裏付けられていると思います。
次に、幕府山での捕虜殺害の犠牲者数推定について。中公新書南京事件』が最初に刊行されたのは栗原伍長の証言からまださほど間もない1986年で、また小野賢二さんの調査結果が刊行されるのはその10年後ですから、その時点で犠牲者数を8千人と推定したのは(前述したように「堅い」数字を目指すという方針であれば)まだ了解可能なことだろう、と私は思います。しかし増補改訂版でもこの点についてまともな考察を加えていないことについては、まったく弁明の余地がないと言わざるを得ないでしょう。
最後にもう一点。これは以前にも何度か書いてきたことですが、秦氏が非戦闘員の犠牲者数を推定するにあたってスマイス調査を援用したという事実は、彼が南京事件の空間的な範囲として、笠原氏と同じ「南京特別市」説を実質的にとっていることを意味するはずです。スマイス調査は笠原氏が「南京特別市」と呼ぶ範囲で予定された(そして一部を除いては実施された)ものだからです。秦説の支持者が笠原氏に対して「勝手に空間的な範囲を広げている」と非難できる理由が私には分かりかねます。