東京裁判に「呪縛」されてるのはどっち?
「百人斬り」とは直接関係ありませんが、ここのコメント欄での sirokaze氏の次のような発言は否定派からしばしば聞かされるものです。「南京問題小委員会」も言ってますね*1。
笠原氏は人口論でも、都市の範囲を広くしたり、時期を広くしたり、要は「その条件では不可能」であるから「オレの限定想定なら可能」なことを自ら暴露するアホ教授であると俺は思っているし、それは彼の論そのものが、非常にあやふやで写真さえ誤用することからも明らか。
岩波新書『南京事件』での写真誤用をいまだに言い立てているというのは、逆に言えば他に反論できるところがないからなんだろうな、というのはさておき、研究者が南京事件の時間的、空間的範囲を見直すのはそんなにおかしいことなのでしょうか? sirokaze氏自身こう言ってたはずです(笑)
ところで、世界の歴史家の100%は歴史修正主義ですが(笑)。
むしろ、歴史固執主義者なんて、それこそ「天動説が正しい」とほざいている宗教家のようなもんですよ。
東京裁判や南京軍事裁判は裁判(それも軍事裁判)であって、史実を明らかにする場ではありませんでした。いまでも中国人が南京事件について語る時には「12月13日」という日付が持ち出されることが多いですが、南京事件を最初に世界に知らせた欧米人たちのほとんどは南京城内の、国際安全区にいましたから、それ以前に城外でどのようなことが起こっていたかについては極めて限定された情報しかもっていなかったわけです(時期的にも、安全区の設立に奔走していたころですし)。今日我々が利用できる豊富な旧日本軍資料や旧軍将兵の証言、日記類もこれらの軍事裁判ではほとんど利用できませんでした。新しい資料の発見に伴ってそれまでの歴史記述を見直すのは当然のはなしです。虐殺や強姦、略奪が37年12月13日に突然始まり、その6週間後に一挙に収束したとでもいうならはなしは別ですが、そうではないわけです。否定派はしばしば左翼が中韓の主張を鵜呑みにしているとか、東京裁判を鵜呑みにしているなどと言い立てるわけですが、ではなぜ南京事件の期間や地理的範囲について東京裁判の事実認定にこだわるのでしょう? これが第一。
第二に、南京事件の空間的な範囲として南京特別市(南京市+周辺6県)をとっているのは笠原氏をはじめとする(いわゆる)左派系の研究者だけか? という問題があります。以前にも指摘したことがありますが、東京裁判の判決には「南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった」という一節があります。66マイルと言えば約100キロですが、地図で確認してみれば明らかなように、周辺6県はこの範囲に収まります。また38年に行なわれたスマイスによる戦争被害調査も周辺6県を対象としていました(実際に調査が行なえたのは4県半ですが)。事件の直後から、また東京裁判の時点でも、周辺6県の被害が意識されていたことが分かります。よく知られているように、秦郁彦氏も民間人の犠牲者数を推定する際にはこのスマイス調査をベースにしています。それも、板倉正明氏などが6県のうち江寧県(南京城を含む県)の数字だけをカウントしているのに対し、秦氏はそのような制限はしていません。したがって、秦氏自身が自覚しているかどうかはともかく、彼もまた実質的には地理的な範囲として南京特別市説を採用しているとみることができるわけです。
第三に、否定派はしばしば「期間と範囲を広げないと被害者数が足りないから左翼は勝手に広げるのだ」などと言いますが、例えば笠原氏と秦氏の犠牲者数推定の差は、基本的には期間と範囲の違いによるものではありません。岩波新書『南京事件』の224-225頁と中公新書『南京事件』の210頁を比較すれば一目瞭然なのですが、両者が数え上げている千、万単位での集団殺害というのはほとんどが12月13日からの数日間に起こっています。民間人の犠牲についてはスマイス調査の数字を過少と見るか過大と見るかが違っているのであって、これまた期間や範囲の違いではありません。笠原氏のように「三七年一二月四日前後」から翌年「三月二八日」までという期間をとったとしても、12月13日からの6週間とする場合と比べて犠牲者数が何万人も増えたりはしないのです。