板倉由明が「適性派(ママ)」じゃまずいでしょう、山本さん(追記あり)

http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin01.htm
http://homepage3.nifty.com/hirorin/nankin00.htm
「適性」ってのは「適正」のことなんでしょうね。


「おすすめ南京本」として『25歳が読む「南京事件」 事件の究明と論争史』(稲垣大紀、中央公論事業出版)を挙げているのにちょっと驚愕してしまい、こりゃあ『25歳が読む「南京事件」』をきっちり読んだうえで(立ち読みした段階でスルー決定していたので)改めてとりあげる必要があるなと思ったので、とりあえず暫定版。


最初にちょっと回り道。南京事件のようにスケールが大きく、しかも発生してからしばらく組織的な調査が行われなかった場合、犠牲者数推定に関してばらつきが出るのは必然だということは何度も書いてきた。別の言い方をすると、犠牲者数推定に関しては「およそ否定しがたい数字<まず間違いのない数字<かなりの蓋然性で認定できる数字<十分に蓋然性のある数字<あながち不可能でもない(多少の蓋然性はある)数字<決して不可能ではない数字(蓋然性がなくはない数字)<あり得ない数字」といったグラデーションがあるわけである。裁判であれば「およそ否定しがたい数字」、せいぜい「まず間違いのない数字」にとどめるのが妥当かもしれないが、いま問題になっているのは裁判ではなく歴史認識である。南京事件のように犠牲者数の推定を困難にする条件が幾つも揃っているケースにおいて「およそ否定しがたい数字」「まず間違いのない数字」に固執するなら、結果として事件のスケールを見誤ってしまうことになる可能性が非常に高い。「かなりの蓋然性で認定できる数字」と「十分に蓋然性のある数字」の差が例えば10万人あった場合に、その10万人すべてが幻である可能性などほとんどないだろう。幕府山における捕虜殺害だけをとっても最低で「二千人ないし三千人」(『南京戦史』)という推定、これに対して約1万4千人説やそれ以上とする説もあるのだから、秦郁彦はともかく板倉由明を「適正派」とするのは到底納得しがたい。なにしろ日本軍の戦闘詳報が全体の3分の1程しか明らかになっていないのであるから。


山本氏のこのような「分類」の背景にある発想として、次の2点に注目すべきであろう。

 中国側の被害を少しでも大きく見せたい者は、上海から南京まで進軍してくる途中で日本軍が行なった捕虜殺害や略奪まで問題にする。前述のアンケートでは、藤原彰氏、井上久士氏、笠原十九司氏は、「南京事件」の範囲を、南京市だけではなく「近郊六県を含む行政区としての南京市」と答えている。
 一方、逆の立場の者は、「南京事件」の範囲を南京市内に限定したり(渡辺昇一氏、阿羅健一氏、冨士信夫氏、大井満氏、岡崎久彦氏ら)、もっと狭い南京市内の安全区に限定する(松村俊夫氏、藤岡信勝氏、櫻井よしこ氏)。これでは、たとえば南京入場式のあった12月17日に、南京市の北約3kmの幕府山近くで、中国兵捕虜8000人以上が射殺された「幕府山の虐殺」は、「南京大虐殺」にカウントされないことになる。
 こんなに「南京」の範囲が違うなら、犠牲者数が何桁も食い違うのは当然である。
 どっちもおかしい。
 常識的に考えて、南京市から一歩でも出たところで殺したら「南京大虐殺」ではないというのは納得できない。どう見たって詭弁だろう。南京城外での捕虜虐殺に関しては多くの記録が残っており、否定できない。だもんで、見て見ぬふりをしているのであろう。安全区に限定するという立場にいたっては、「お話にならん!」としか言いようがない。
 一方、南京周辺の県まで含めると、いっそうややこしいことになる。そうした地域での記録は、南京市周辺のそれに比べてきわめて乏しく、それこそ正しい犠牲者数を推定するのは無理なのだ。そのように範囲を広げたうえでの10万人以上の数字は、具体的根拠に欠ける想像であると、僕は思う。

たしかに狭義の南京市と南京特別市の関係は「ややこしい」問題ではあるが、南京特別市で起きたことを「南京事件」の一部としてカウントすることになにか不都合があるだろうか? スマイスだって(調査不可能だったところを除いて)周辺の県を調査対象としているのだ。また周辺6県に関する資料が乏しいというのはまずは日本側資料について言えることであって、中国側ではそれなりに聞き取り調査の蓄積がある(日本人による中国人生存者への聞き取り調査も含めて)。その結果を無批判に受け入れる必要はもちろんないにせよ、「正しい犠牲者数を推定するのは無理」という事実を“犠牲者数を少なめに推定する方向性に有利になるように”のみ利用するのはフェアとは言えない。「不明」なら少なかった可能性と同じくらい多かった可能性もあるのだ。
もうひとつ。上記の引用に秦郁彦の名前がみあたらないことに気づかれたであろうか? 実は秦郁彦は民間人の犠牲者を推定する際、スマイス調査を(数字に独自の修正を加えて)援用している。そして、スマイス調査は南京特別市を構成する周辺6県を調査対象にしているのである(事情により調査できなかった地域を除く)。これに対して板倉由明は民間人の犠牲者を推定するにあたって「城内+江寧県」だけを空間的範囲としている(江寧県は南京城を含む県)。つまり、南京事件の空間的範囲に関する限り、秦郁彦は基本的に笠原十九司と同じ立場であり、板倉由明よりも広い範囲を想定しているのである。南京事件の空間的範囲に関して秦郁彦と板倉由明をあわせて「適正」とし、藤原彰笠原十九司は適正ではないとするのはまったく筋が通らない。
なお、東京裁判の判決でも次のように「南京特別市」に相当する空間的範囲への言及があることを指摘しておく。南京事件の空間的範囲を南京特別市全域とする発想がすでに戦後すぐにあったこと(スマイス調査を考えれば1938年からあったとも言える)ことの証左である。

城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。
 住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。
 南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

(以上、赤字部分は2007年7月21日追記)


第一、厳格さをあくまで追求するなら日本人が一般に認識している空襲(原爆を含む)の犠牲者数にだっていくらでもケチをつけられる。不本意ではあるがあえてやってみよう。約10万人といわれる東京大空襲の犠牲者のうち、厳密に「空襲の犠牲者」と言える数字はどれくらいなのか? 一体一体の遺体をすべて検死したわけではないのだから、「焼夷弾により焼死した死体」と「逃げ惑う群衆により圧死した後焼かれた死体」「通夜の最中に空襲にあった遺体」をどう区別するというのだろうか? 川で溺死した犠牲者は空襲の犠牲者なのか、それとも避難途中の事故死なのか? 日本人は空襲の犠牲者をカウントする際に軍人・軍属・非戦闘員を厳格に区別してきただろうか?
南京より上海に近い地域での虐殺・強姦・掠奪等まで「南京事件」のうちにカウントするのはおかしい、というのは確かに一理ある。「南京事件」ないし「南京大虐殺」という固有名詞を使用する限り、この種の反論を無視することはできまい。ただし、南京事件の地理的範囲に関して禁欲的であろうとする論者に対しては、こういう問いを提起しておきたい。「じゃあ、○○事件として名づけられることもなく殺された人びとのことはどう考えるのか?」と。


次に

 「虐殺」の範囲も問題である。
 よく問題になるのが便衣兵の処刑が合法だったかどうかだが、「まぼろし派」の中には驚くべきことに、便衣兵ではない投降した捕虜の殺害をも正当化する者がいる。捕虜が多すぎて手に余る場合には殺してもよい、というのである。いやはや。
 その一方、敗走する中国兵を日本軍が攻撃したことも非難する者がいる。さすがにこれは「虐殺」の定義を広げすぎである。いくら残酷な光景であっても、降伏していない敵を攻撃するのは戦闘行為の一部である。

という部分。「いくら残虐な光景」であっても「虐殺」でない、というのである。山本氏は上の引用に続いて「もうお分かりだろう。これは学術論争ではない。イデオロギー闘争なのだ。」と書いているが、私に言わせれば“残虐な光景であっても虐殺じゃない”などという形容矛盾は、「オレだけはイデオロギー・フリーだぜ」症候群の産物である。これは、このところ何度か指摘してきたように、「虐殺」と「不法殺害」との外延の差異を無視した議論である。「南京大不法殺害」と通称されているならともかく、「南京大虐殺」に「残虐な光景」をすべて含めてることはまったく正当性を持たないだろうか? 第一、南京攻略戦自体の法的正当性が極めてあやふやなのである。事実上戦争だったから戦闘行為における殺害は正当だ、などという考え方は「裁判」ならともかく「歴史認識」としてはあまりに狭隘である。