南京事件否定論の論法を天安門事件に応用すると……

朝日新聞阪神支局襲撃事件」の実行犯と称する人物の「手記」が掲載されているということで『週刊新潮』の2月12日号を買ってきたのだが(2月5日号から掲載開始)、そちらについては本館のエントリをご覧いただくとしてここでは「中国「天安門事件」20年で語られる「本当は何人殺されたか」」(52ページ〜)をとりあげてみたい。強調はすべて引用者。わずか3ページの記事なのでページ数は省略。原文のルビも省略。

「“天安門広場で5000人死んだ”と発言したのは学生リーダーのウーアルカイシでした。死んだのは学生なのか市民なのかも分からないまま、興奮の中で死者の数だけ言ったのです」
 というのは、『紫玲の見た夢〜天安門の炎は消えず』や『「天安門」十年の夢』の著者で作家の譚璐美氏。
「しかし、私が天安門広場の中にいた学生や知識人に個別インタビューした時、“あなたは目の前で死んだ人を見たか”と質問すると、誰も銃で撃たれたところを見た人はいないのです

な、なんだって? それじゃマギー牧師の証言と同じじゃないか!

広場にいた人の証言によると、まず、群衆を一掃するために照明がすべて消され、真っ暗闇の中を軍隊が横一列になって入ってきた。その時、それまでの真っ暗闇に照明が一斉に点き、掃討が始まり催涙弾が撃ち込まれた。若手知識人で“四天王”と呼ばれていた4人が“このままの状態では銃で撃たれる”と、人民解放軍の幹部のところに出向き、交渉した。その結果、“広場から学生を連れ出すので撃たないでくれ”という交渉が成立。学生たちを連れて広場を去ったというのが真実だそうです」

松井大将が南京防衛軍に投降勧告をしたのと同じように、人民解放軍は学生の撤退を認めていたのだ! その結果、天安門広場では「5000人」の死者は出なかった!

その一年後、日本の代表的「南京大虐殺」派の研究者である笠原十九司氏は、一九九八年十二月二十三日号の「SAPIO」(資料1)に掲載された論文の中で、前出の孫宅巍氏の見解を否定する「南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない」と断言している
日本の前途と歴史教育を考える議員の会 、「南京問題小委員会の調査検証の総括」より)

↑参考資料。再び『週刊新潮』に戻ろう。

 では、事件で死者が出なかったか、というと、
北京市内では多くの市民が犠牲になっています。広場に隣接する長安街で撃たれたり、戦車に轢き殺された人は800人から1000人いたと思います。(……)

勝手に「範囲」を広げて犠牲者数を増やしている! それでも「5000人」と比べると5分の1以下(30万人に対する6万人ないし4.8万人)でしかない。しかも「学生」ではなく「市民」だった!

 かくも凄まじい、想像を絶する虐殺だったわけだが、譚氏よりさらに多い、
「1600人前後死んだと考えるのが妥当ではないでしょうか」
 とはノンフィクション作家の森田靖郎氏。
「海外の民主化組織によれば、行方不明者の総数は1600人であり、またアメリカに亡命した中国人経済学者によると、1800人から2200人の行方が分からないという。

「行方不明」ということは死体も確認されていないし、もちろん死因も確認されていないわけだ!
800人から1000人という犠牲者数推定に基づいて「凄まじい、想像を絶する虐殺」と『週刊新潮』が表現していることも長く記憶にとどめておきたい。

あらゆる客観的な情報から判断すると、学生、軍人、農民、市民を合わせて1600人ぐらいではないでしょうか」

天安門事件」とは天安門広場で学生たちが武力弾圧された事件ではなかったのか? なのに「北京市内」で、農民や市民だけでなく「軍人」まで含めた死者が1600人だとは。

 相林氏によれば、北京市内の死者5000人に加えて中国全土で5000人の死者がおり、天安門事件全体では約1万人が死んだという。他にネット上では3万人が死んだという指摘もある。白髪三千丈のお国柄とはいえ、あまりにも幅が大きい

天安門」事件であるにもかかわらず、「北京市内」どころか「中国全土」まで空間的範囲を広げるとは! ここまでで紹介された犠牲者数推定の幅は800人から3万人で、これに比べれば中国側の30万人説と秦郁彦説の4万人説との「幅」など問題ではない!


南京事件否定論のロジックを応用するなら、「天安門事件は中国反体制派と西側諸国のでっちあげ」「天安門事件はなかった」と言わねばならないことはもはや明白だろう。最後に決定的な証言を二つ紹介しよう。

「犠牲者の数字を把握することは不可能といっていいでしょう」
 こう語るのは外交評論家の宮崎正弘氏である。

宮崎正弘氏と言えば南京事件否定論を主張する映画『南京の真実』の賛同人の一人である。犠牲者数が不明であるのに「虐殺はあった」と言えるのか?

 数千万人が死んだともいわれるスターリンの大粛正は、全貌解明に半世紀後のソ連崩壊まで待たねばならなかった。天安門事件の真相解明もまた、その日まで待たねばならないのだろうか。

ちょっと待ってほしい! 戸井田とおる先生率いる「南京問題小委員会」は1938年2月に国際連盟理事会で行なわれた顧維鈞中国代表の演説を評して、南京事件の被害を「中国としても一番正確に把握していた時」になされたもの、としていたはずである。このロジックに従うなら、「その年〔=天安門事件の年〕に訪中した自民党の伊藤正義代議士に李鵬首相が死者は319人と語っている」(『週刊新潮』2月12日号より)のが「中国としても一番正確に把握していた時」になされた犠牲者数推定ということにはならないのか? 虐殺した側の主張は信用できない? ということは、「岡村寧次大将陣中感想録」にみられる5万人という犠牲者数推定も過少なものだと考えねばなるまい。ウーアルカイシの主張ですら3万人ではなく5000人なのだ。中国共産党の独裁が終わるまで天安門事件の真相は明らかにならないのだとすれば、南京事件の真相が明らかになるのは大日本帝国の崩壊以降であってなんの不思議もないはずだ。『週刊新潮』はいったいどちらの立場を支持するのか?