河村発言があぶり出したこと

河村たかし南京事件否定論者であることについては当ブログで繰り返しとりあげてきたため、先週彼の口から発せられた与太についても驚かなかった(発言した機会についてはさすがに少し驚いたものの)のだが、その後一週間のマスコミ及びネットでの反響によって、改めて問題の根の深さと深刻さを思い知らされた。この社会は、質的に言って最低レベルの歴史修正主義すらきちんと批判できないのだ。

河村たかしの釈明を批判している記事なのだが、そのなかにこんな一節がある(強調は引用者)。

昭和史研究の権威である秦郁彦氏ですら、史料に基づく数ではなく「推論」でその数を主張しているのが現状だ。

この人が中公新書の『南京事件』を読んだことがないのはまず間違いない。あの本を読んで「史料に基づく数ではなく」なんてことが言えるはずはないから。また、この人は「史料に基づく」ことと「推論」(これはむしろ「推定」「推測」とでもすべきではないかと思うが)とが対立することであるかのように考えているようだ。ある歴史的出来事についての史料に不足があることなど珍しくもないのであって、その不足を「推論」で埋めるのもまた南京事件に特有のことではない。もちろんその「推論」は入手可能な「史料」に照らして合理性を持つものでなければならないが、一定以上の合理性を持った複数の「推論」が並び立つことも南京事件に特有のことではない。そして複数の「推論」が並び立ちうるということは、まるで合理性を欠いた誤った「推論」を同定できないということを意味しない。「親父が親切にされたから虐殺はなかった」説は現存する史料が示すところに完全に反している「推論」だからこそ、箸にも棒にもかからぬ愚論なのである。

 おそらく、日本人の多くは大変まじめで、歴史認識とは真実を意味し、発言にわずかでも不確かな部分があれば訂正し、謝罪しなければならないと思っている。

繰り返し指摘したように、河村発言(特に当初の発言)は「わずかでも不確かな部分」があるといったレベルの代物ではなく、どれほど贔屓目に見ても救いようのない、それこそ否定論陣営から「馬鹿なことを言うな、一緒にされると迷惑」とバッシングされないのが不思議なくらいの、極めつけの与太である。このように、誤った前提から出発する議論が無意味であることは言うまでもない。

 政治家として、公式に外国の訪問団相手に歴史認識について発言したことを簡単に撤回し謝罪しては、その政治生命はおろか、日中間にある数々の交渉事にマイナスの影響を与えかねない。

「わずかでも不確かな部分」があるといった程度の発言についてであればこのように論じる余地があるとしても、河村発言の水準に照らせばこれは「どれほどデタラメを言おうと、政治家はいったん行なった発言を簡単に撤回し謝罪すべきではない」という馬鹿げたことを意味してしまうことになる。

 一方で、犠牲者を30万人という数字でひとくくりにし政治利用するだけして、具体的な被害調査を放置してきた中国側の事件に対する不誠実さに不満を持つ学者もいる。

“犠牲者数については諸説ある”ことを政治利用するだけで、具体的な被害調査を放置してきた日本側の事件に対する不誠実さは気にならないのだろうか? 日本政府が南京事件について積極的にやろうとしたことはと言えば、ただ歴史教科書からその記述を消し去ろうとすることだけだった、というのに。


最後に、27日に行なわれた河村たかしの記者会見について。

 南京事件と言ったら30万人の非武装の中国の人を日本軍が大虐殺したということ。それは「ない」と言える。戦闘行為はあったから、非常に残念なことはあったのかもしれない。あったのだろう。それは否定しない。

歴史修正主義者の常套手段、ありもしない主張をでっち上げてそれを否定してみせる、という論法。しかしいま問題にしたいのは、こんな言い抜けを許してしまう日本のマスメディアの水準だ。「ユダヤ人がガス室で600万人殺されたという、いわゆるホロコーストはなかったと言っているだけで、ユダヤ人が殺されていないとは言っていない」などという言い訳を欧米のジャーナリストが黙って見逃すだろうか?

 (政府見解は)非常に不明確だ。そもそも虐殺という言葉の定義がない。


 −−「虐殺がまったくない」という立場ではないということか。


 虐殺という言葉が、一人二人でも態様によってそうなるのか、それとも一定の数をイメージしなくてはいけないのかはっきりしない。質問に答えるのはなかなか苦しい。

必要十分条件による定義などなくても概念が有意味に使用されうることについては、以前に「家族的類似」を援用して論じておいた。今回指摘したいのは、「定義がはっきりしない」ことが日本ではもっぱら南京大虐殺について明確に述べるのを避けるために、あるいは犠牲者数を“値切る”ためだけに持ち出されるという事実は、この問題についての日本社会の欲望を反映したものである、ということだ。「定義が曖昧」であるというのなら、より大きな犠牲者数推定を帰結するような緩やかな「定義」を排除することもできないはずである。