根拠のない疑問は言いがかりと同じ(追記あり)
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20081228/p1#c1230865587
での sirokaze氏のコメントについて。これもある種の典型的な振る舞いです。
その前に当たり前のことを敢えて確認しておくと、「百人斬り」報道が記者のでっちあげであるという否定派の主張は訴訟を通じて粉砕されました。特にN少尉の方は南京攻略戦終了後も積極的に「百人斬り」について語っていること、また小学校での講演で捕虜の据物斬りをやったと話していたことは複数の証言(裁判後に明らかになったものを含む)により裏づけられています。もちろん、当人が「やった」と言っているからといって直ちに「やった」ということになるわけではありませんが、「やった、と言っていた」という証言も複数あり1件のみとはいえ「やっていたのを見た」という証言(いわゆる望月手記)もある以上、「やった」という当人の主張を覆すには相当な反証が必要です。sirokaze氏や一知半解氏は笠原教授の議論が「多数の据物斬りは可能である」ということの証明に力を注いでいることに不満をもっているようです。しかし、これはある意味で当然のことなのです。当人が「やった」と語っている。「やったと言っていた」という証言もある。それに対して「そんなことは不可能だ」と否定派が反論したわけです。とすれば、「可能である」ことを示せば否定派の反論は却下され、「やった」という本人の発言が信憑性を回復するわけです。
では、sirokaze氏の反論には根拠があるのでしょうか?
(3)からまず入るとすると、少尉である人間が「捕虜の大量殺害」をわざわざする必然性がないという常識すら持ちえていないこと。つまり、その当時。軍隊で捕虜の処刑を行う人が、少尉という階級よりもっと下層の人間が行っていたであろうことは容易に想像がつく。考えても見れば、二人で200名である。わざわざ部下を指揮する仕事をさしおいて、また前線部隊で、かつ敵襲に備えなければならないのに、わざわざ暇なことをやっている暇はソレこそない。
ゆえに、笠原理論は穴がある。これを覆すには、日本軍が捕虜処刑に関して、直接少尉階級が行うことを証明しなければならない。そんな文献は一つもない。したがって、笠原教授は教授の癖に、この基本的なことすら補強していない。仮説が仮説でしかない上に、実証までしていない妄想である故である。
これがまたなんの根拠もないんですな。「そんな文献は一つもない」って、この人はどれだけ調べたうえで言ってるのでしょうか? 「容易に想像がつく」とか言ってますが、むしろ「安易に」想像したと言うべきでしょう。証言、証拠に疑義を呈するならそれなりの根拠というものがなければなりません。根拠なしにケチをつけていいのならあらゆる証言、証拠を無効化することができてしまいます。そういうのは“難癖”と言います。
では、将校が捕虜の処刑に直接たずさわったケースは他にあるのか? もちろんあります。最近有名になった事件をとりあげてみましょう。昨年、『明日への遺言』という映画が公開されました。これは敗戦後にB級戦犯として処刑された岡田資中将を主人公にした映画です。この戦犯裁判は横浜弁護士会BC級戦犯横浜裁判調査研究特別委員会の労作、『法廷の星条旗 BC級戦犯横浜裁判の記録』(日本評論社)でもとりあげられています(「東海軍・岡田ケース」として)ので、その実態をある程度うかがうことができます。岡田中将とともに起訴された将校の一人に、成田大尉がいます。彼は「同軍司令部裏庭において前記二七名のうち十六名を斬首処刑するにあたり成田はその処刑執行官となり、自ら及び他の八名がそれぞれ搭乗員を斬首殺害した」(150ページ)として起訴されました(判決は重労働30年)。この成田大尉が書き残した法廷速記「東海軍事件の概要」が残されており、特別委員会が資料として利用しています。詳しくは同書を参照していただきたいのですが、弁護側は処刑の事実そのものは否認していません*1。処刑執行者は軍律会議の結果死刑に宣告されたと説明されたから、という理由で無罪を主張したのです(しかし実際には、成田大尉が関与した事例では軍律裁判は行なわれていませんでした)。同書には他にも斬首処刑を実行した将校の例が紹介されています。よく知られているのは「西部軍事件」において、処刑の前日に空襲で母親を亡くしたという理由で執行官役を自発的に買って出た、冬至主計大尉の事例です。
このように、ちょっと調べてみれば「軍隊で捕虜の処刑を行う人が、少尉という階級よりもっと下層の人間が行っていたであろう」などというのがなんの根拠もない、思い込みに過ぎないことがわかるのです*2。
追記:ブクマコメントより
NOV1975 議論 そういう一般化的タイトルにするとまずいんじゃないかなあ。疑問を抱くことの表明の制限に聞こえるもの。/もちろん、適用できることは結構あるだろうけど。 2009/01/02
nekora 疑問の表明すらも(r 2009/01/03
いいですか、ここで問題になっているのは「どうして夕陽は赤いの?」とか「世の中にはなぜ豊かな人と貧しい人がいるの?」といった「疑問」じゃありません。具体的な個人が自分の体験について語っていること、その内容についての疑義のことです。id:NOV1975氏や id:nekora氏は目の前の誰かが喋ったことについて、なんの根拠もないのに「それ、嘘だろ?」と言えますか? その人が「目の前」にいなければ言えるのですか? これは認識論的な問題というより、倫理的な問題です。警察官や検察官が被疑者を取り調べる場合ですら、被疑者の弁明をすべて頭ごなしに否定したとしたら、それは不当な取調べであると言われるでしょう。まして被害者に対し、なんの根拠もないのに「あんた、本当に殴られたの?」と言ったとしたらどうか。“疑いをもつ無際限な権利”なるものはあらゆるセカンド・レイプを正当化するであろうことが分かりませんか?
仮に「軍隊で捕虜の処刑を行う人が、少尉という階級よりもっと下層の人間が行っていたであろう」というのがなにがしかの現実性をもつ想定ならば、「本当に両少尉は据物斬りをやったのか?」という疑問も「根拠」をもつとは言えたでしょう。例えばこれこれの文献にそう書いてあったとか、自分はこれまで千点を越える従軍記、戦記を読んできたがただの一度も将校が処刑執行者となったという記述を見かけたことがない、とか。あるいは処刑の手続きについて定めたこれこれの公文書がある、とか。しかし実際には「少尉という階級よりもっと下層」などという表現一つとっても、これが為にする主張であって旧日本軍についてのまじめな議論足り得ないことは明白です。だって、少尉って(准士官を除けば)将校としての最下級の階級ですよ? 二等兵から大将までを並べたら真ん中より下位に属する階級ですよ。これが例えば「少将」なら、「そんな階級にある人間が自ら手を下すのか?」という疑問をもつのもまだ分かるけど、少尉って部隊長としては小隊長、つまりは最前線の指揮官を勤める階級であって、兵隊から見ても別に雲の上のひとじゃありません。超然としてすべてを兵隊にやらしておけばすむ、なんて立場ではないのです。