一知半解氏に答える

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正直なところ、山本「事実であろうと、なかろうと」七平への信仰のために戦犯裁判で処刑された下級将校をホラ吹き呼ばわりしようとするひとの相手をするのは労多くして功少なしなんだけど、まあたってのご希望だから。
だいたいこのひとはしょっぱなから「まず、驚かされるのが、笠原氏が戦前の新聞報道を全く疑っていない姿勢を取っていることです」だとか「笠原氏は、当時の新聞報道が(事実を報道するのを目的としていたのではなく)戦意高揚・宣伝宣撫を目的としていたことを全く無視しています」などととんでもないことを言い出してます。例えば『「百人斬り競争」と南京事件』は『日本刀の近代的研究』を重要な資料としてとりあげていますが、その理由として「先に紹介した海軍陸戦隊の軍刀実用者の報告は、「戦果の報告」「戦果の誇示」ではなく、「改善」のための意見集約であったから、記載されている内容はほぼ事実であるとみてよかろう」(34頁)としています。また地方紙の戦争報道については「郷土部隊に密着した戦争報道をしながら、中国戦場と銃後の地域を密接に結びつけ、あたかもスポーツかゲームのように*1戦争を報道して、国民の戦意高揚をはかり、一方では遺された家族に「倅よく死んでくれた」「名誉の戦死です」「報国の遺志は受け継ぎます」といった建前をいわせるようにして、戦争犠牲を受容させる世論形成をはかっていったことがわかる」としています(38-39頁)。
プロの歴史学者が「当時の新聞報道が(事実を報道するのを目的としていたのではなく)戦意高揚・宣伝宣撫を目的としていたことを全く無視」しているなどと発想しうるのがもうトンデモと言うべきですが、もし「笠原氏が戦前の新聞報道を全く疑っていない姿勢を取っている」のであれば「百人斬り」の実態は「据えもの斬り」である、といった主張はありえないわけで、一知半解氏がいかに「結論先にありき」の読み方をしたかはもうこの時点で明白です。もう一例だけ、だめ押しに引用しておくと、先の地方紙についての分析にすぐ続いて、次のような一節があります。

 以上の一連の記事は、白兵戦を勇敢な戦闘として物語化して、日本刀や銃剣で中国兵を斬殺するのを手柄話として報道している。十二月二六日の「百人突き、締め競争」の記事は、おそらく「百人斬り競争」を意識したものと思われる。「締め」は戦闘中にはできないことで、やったとすれば、武器で抵抗できない捕虜を「締め殺した」可能性がある。このような記事が手柄話として報道されていたことは注目してよいだろう。
(39ページ、強調は引用者)

「笠原氏が戦前の新聞報道を全く疑っていない」などというのが誹謗中傷に過ぎないことは明白でしょう。というわけでさらにやる気が萎えてしまいます。笠原氏の議論に対する歪曲の例を挙げていくとキリがないのですが、「兵士の勇猛さを讃えるのが「目的」だけの記事報道を以って、実際に「OO人斬り」があったと断定する」などというのもその悪質な一例です。『「百人斬り競争」と南京事件』を通読してなおこの一文を書きうるのは嘘つきか「信仰」のために都合の悪い事実を認知できない人間だけ、と言って過言ではないでしょう。このひとは志々目彰氏の回想も望月五三郎氏の従軍記も、さらには原告側の証人となった佐藤元カメラマンの証言さえも「兵士の勇猛さを讃えるのが「目的」だけの記事報道」だと言い張るつもりでしょうか? 失笑すら浮かんできません。


こういう駄弁にいちいちつきあうのも意味がないので、以下では逐条的な反論ではなく「なぜ据えもの斬りは行なわれた、と考えるのが合理的か」に絞って説明してゆくことにします。
一知半解氏もどうやら志々目彰氏の証言がN少尉の「発言」を(ほぼ)正しく伝えていることは認めているようです。とすればはなしは簡単で、問題は「本人がやった、と言っていることを否定するだけの根拠はあるのか?」に集約されます*2。一知半解氏は講演でN少尉が嘘をついたと主張しているわけですが、しかしその動機について合理的な説明はまるでできていません。なぜできないかと言えば、山本「事実であろうと、なかろうと」七平だけを頼りにしているからです。山本「事実であろうと、なかろうと」七平の主張は70年代前半に書かれたものですから、当然それ以降に発見された各種証拠を踏まえていません。一知半解氏は「本書の中には、山本七平のこの見解に対する反論というものがまったく見当たらないのです」とご不満のようですが、30年前の、新たな史料をふまえていない主張など反論するまでもない、ということです。例えば山本「事実であろうと、なかろうと」七平は両少尉が南京攻略戦終了後も、積極的に新聞に「百人斬り」とその後について語っていたことを知りませんでした*3。N少尉が「百人斬り」について言及した軍事郵便が新聞に掲載されたことも知りませんでした。当然、一知半解氏もこれらの史料を無視していることになります。山本「事実であろうと、なかろうと」七平が次のように書いているのも間違いです。

前線には新聞は配送されない。
従って二人は一体全体、何か書かれていたか、内地に帰ってみなければわからなかったのが実情であろう。

『「百人斬り競争」と南京事件』135ページでは秦郁彦氏による片桐部隊(=歩兵第9連隊)第二歩兵砲小隊長だった吉田大桂司氏へのヒアリングにおいて、「一〇日か二週間遅れて新聞をみて“やっとるな”と思った。野田はスポーツ競技じゃないぞと連隊長に叱られたらしい」と語ったことが引用されています。先に言及した軍事郵便(38年1月25日付けの新聞に掲載された、それゆえ帰国前に書かれたことがわかる)にも同僚が「百人斬りの歌」をつくってくれたことが書かれています。「百人斬り」報道が戦地に届いていたことは明らかです。
こういう誤謬を前提とした議論になんの価値もないのは言うまでもないのですが、そもそも一知半解氏が得意げに引用している山本「事実であろうと、なかろうと」七平の文章は、“N少尉はなぜやりもしない据えもの斬りをやったと語ったのか”という動機の問題については、なんの説明にもなっていないのです。とっくに破綻した「日本刀限界説」を根拠に「とりつくろい」だと断じているだけです。
というわけで、一知半解氏の「N少尉講演=虚言」説は破綻しました。破綻したというより、そもそも成立していなかったという方が正確です。「百人斬り」訴訟の原告側はもちろん、30年以上も前の山本「事実であろうと、なかろうと」七平の議論に依拠する、などという無謀なことはしませんでした。「講演でN少尉がそんなことを話すのは聞かなかった」と証言してくれる人間を捜したのです。同じ連隊の将校が「百人斬りの歌」をつくって祝福してくれるような状況において、わざわざ武勇伝に傷をつけるような嘘をつく理由を合理的に説明することなどできないことを了解していたからです。しかし、「聞いた」という証言が複数ある以上、「聞かなかった」という証言は(偽証でないとしても)聞き落としか忘却に由来すると判断するのが常識というものです。


さて、残るは望月「従軍記」です。これについて一知半解氏は驚天動地の解釈をしてみせます。

要するに、笠原氏は、公式記録である『第11中隊陣中日誌』と照合させ、吉田一等兵が殺された記述が一致することから、望月氏の証言は信憑性が高い…と簡単に断定しているのです。
(大きなウソをつく者は、細部をどうでもいい事実で糊塗するものですが、それにあっさりとだまされるとは…。情けない大学教授ですね。)

この人は、兵隊にとって戦友の戦死(それも目の前での!)が「どうでもいい事実」だと言いたいようです。バカバカしい。こういう人間が、あたかも二人の旧軍将校の名誉のために発言しているかのように振る舞うのは不遜というより他ありません。望月「従軍記」の史料としての価値は、「N少尉の据えもの斬りについて嘘をつく動機があるか」という点に大きくかかっています。このため、稲田朋美は『百人斬り裁判から南京へ』(文春新書)において、歩兵第9連隊の速射砲中隊に所属していた「Aさん」なる人物が望月「従軍記」を評して「この人は軍隊に対し敵意をもっている人であり、ここまで上官の悪口を書くということは異常だ」と語った、としています(151ページ)。まず「悪口」というのは必ずしも虚言を意味しないことに注意する必要があります。仮に「軍隊に対し敵意」があったとしても、それは「現実に起きた戦争犯罪を告発する」動機にもなりえます。「敵意」はあくまで虚言の「可能性」を示すだけです。また、そもそも「敵意をもっている」という評価が妥当であるかどうかも、この従軍記『私の支那事変』を通読してみなければ判断できないことです。軍への「敵意」から嘘まで書いてN少尉を貶めようとするなら、私家版にとどめず新聞社に売り込むなどのことをやってもおかしくないはずですが、原告側もそのような事実は主張していません。私自身もこの従軍記は読んだことがありませんので自身で判断することはできませんが、参考までに inti-sol さんの分析を紹介させていただきます。→ http://andesfolklore.hp.infoseek.co.jp/intisol/hyakunin4.htm
重要なのは志々目証言と望月証言とが「据えもの斬り」が行なわれたという主要な点で一致する一方、より後に書かれた望月「従軍記」の方には志々目証言にない具体的なディテールが書かれている、ということです。「あまりにも劇画調過ぎること」とか「まるで時代劇を見るが如く」などというのは、劇画や時代劇は見たことがあっても戦場を見たことのない人間の言うことですから、単なる印象批評に過ぎません。「そのようにショッキングな場面において、冷静に客観視して見て、それを描けるものでしょうか?」という疑問は、この従軍記が戦後40年を経て(ということは南京事件からは50年近くを経て)書かれたものだということを無視した、心理学的に意味のない問いです。
残りの部分も与太ばかりなのですが、一点だけ指摘しておきましょう。

阿羅氏の「大隊本部の副官が第11中隊指揮班の兵に命令をすることはない」という指摘に対しての反論部分は、笠原氏が軍隊の組織というものを全くわかっていない証左です。


軍隊とは、上下のラインを通じて命令が伝達されるのが絶対です。
つまり、第11中隊の一等兵は、直属上官である第11中隊長の命令でしか動きません。
たとえ野田少尉と望月一等兵が、一時期、教官と生徒という間柄であったとしてもです。


それはなぜか。
直属上官の命令は絶対。横とか斜めから命令がきたら、組織として成り立たないからです。

多少なりとも旧日本軍についてのまともな文献を読んでいれば、こんなことはとても書けないはずです。この引用箇所に続いて援用されている山本「事実であろうと、なかろうと」七平の文章も反論には役立ちません。二・二六事件に際してクーデターに駆り出された兵、下士官は“生身の”上官から命令を受けている一方で、「奉勅命令」についてはビラやアドバルーン、ラジオといった手段でのみ知っていただけです。それでも兵たちの間には動揺が起きています。しかし望月一等兵にとってN少尉は目の前にいる上位者だったのです。N少尉の命令を聞けば中隊長に命じられた任務が達成できなくなる、というジレンマに陥っていたならともかく、そうでない以上「直属の上官」でないことは眼前にいる将校(しかもかつて教官だった将校)の命令を無視できる根拠にはなりません。事実、山本「事実であろうと、なかろうと」七平も「もちろん二・二六は極端な例だが」と認めたうえで、「この「組織の矛盾」をうまく逆用すれば、命令を拒否することも可能」だと言っているに過ぎません。望月一等兵が「うまく逆用」したに違いないと考える根拠は具体的にはないわけです。「第一大隊長が、第三大隊の第七中隊に直接に命令を下すことは絶対に出来ない」ともしていますが、この場合は大隊副官とその大隊に所属する兵士という関係ですから、第一大隊長と第三大隊の中隊との関係とは異なります。せめて自分にとっての聖典くらい真面目に読んだらどうなんでしょうね。


まあ山本「事実であろうと、なかろうと」七平に対する信仰がある限り、なにを言っても無駄でしょうが。


追記:原告側の証人として出廷した佐藤元カメラマンの証言の意味について、補足しておきます。彼は法廷でも改めて当番兵を交換して斬った人数を数えるのだ、と両少尉が語ったことを確認しています。当番兵のはなしまで含めて両少尉がホラを吹いたのか、それとも実際に当番兵を交替して数えさせたのか。この証言のみから直ちに判断することはもちろんできませんが、志々目証言や望月証言を補強する証拠として考えることはできます。もし「どうやって数えるのか?」という質問にうまく答えられなかったのなら、「競争」が存在したことを疑う根拠が出てくるわけですが、この両少尉の説明は具体的かつ説得力のあるものです。

*1:引用者注:戦中の新聞は現在ほどページ数がないという事情もありますが、実際にプロ野球の結果と戦争報道が同じページに掲載されている例を見たことがあります。

*2:なお厳密に言えば志々目証言も望月証言もN少尉の「据えもの斬り」についてのみ関係するものです。しかし私の知る限り「N少尉は確かにやったがM少尉はやっていない」と主張する人間はいませんので、この点はひとまず無視することにします。

*3:後追い報道においては両少尉は「三百五人」を斬ったとか「三百七十四人」を斬ったなどと語ったことが報じられています。もちろん、この数字を信じる必要はありません。有名になった二人が新聞記者の期待を察して、あるいは求めに応じて、話を大きくしたというのが蓋然性の高い解釈でしょう。そもそも「両少尉は無実か、否か」という観点から言えば百人が十人であったとしてもそれは二次的な問題でしかありません。現に笠原氏はM少尉の「戦果」について、部下とともに殺した中国兵の数を加えている可能性を示唆しています。ただ、新聞報道にみられる大きな数字の背後にあった史実は、それにみあったある程度大きな数字であったろうと考えるのが合理的だ、というだけで。肝心なのは両少尉が新聞に対しては話をあわせていた、という事実です。この注、追記。