『百人斬り裁判から南京へ』より

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090104/p2#c1237217718
右派が政治的に利用しようとした訴訟(いわゆる「百人斬り訴訟」)に負けた後でなお「両少尉は国際法違反の殺人などしていない」と言い張る以上、原告代理人である稲田朋美が書いた『百人斬り裁判から南京へ』(文春新書)は当然読んでるんだろう……と思っていたら、一知半解氏は未読だったとのこと。ほんとに70年代の道具立て(=山本七平)だけで21世紀の議論に挑むつもりだったのか。まさに旧軍精神の継承者といえましょう。


さて、あんまりにもばからしいのでとりあげてこなかった『百人斬り裁判から南京へ』だけれども、折角の機会なので歴史修正主義者のやり口というか発想がよくわかる部分に絞ってちょこっと紹介しておきます。
まずはN少尉と士官学校で同期だったという元軍人から聞いたというはなし。1938年にN少尉ともう一人の同期生の3人で、銀座のビアホールで会合した際のこと。

 次に「どうやって一〇〇人も斬ったのか」と聞いた。N少尉〔原文は実名〕は「冗談じゃない。一〇〇人も斬れるわけがない。斬ったのは七人だ。六人は突撃をして斬った。あと一人は夜間外出禁止令を出した占領した町で巡察中に不審者がいて斬った」と答えた。この七人という数字についてTさん〔原文は実名〕は、本当に七人斬ったかどうかも怪しいといっていた。自分らの手前、水増しして七人といったのではないかと当時思ったという。もちろんそれは捕虜を斬ったとか民間人を斬ったということではない。戦闘中の話として斬ったということであり、これが戦時中何の問題になることがあるだろうか。
(73ページ)

ちょっと弁護士が書いたとは思えない、驚くべき文章です。「巡察中に不審者がいて斬った」んですよ? これが「戦闘中の話」ですか? これは軍律違反容疑者の不法殺害であって、「民間人」だった可能性も決して低くはないわけです。「怪しい奴は法的手続き抜きで殺してかまわない」という法意識はまさに当時の日本軍に蔓延していたものですが、ここで稲田朋美は自身もまた同様な人権感覚の持ち主であることを露呈しているわけです。
ちなみに、特にネット否定論者は「証言は証拠にならない」とか「南京事件の証拠とされているのは伝聞証拠ばかり」といったデマをよく吹聴しますが、その基準に照らすならT氏の証言なるものは二重の伝聞であって、まともにとりあげるに値しないことになります。しかし歴史記述にあたっては伝聞証拠排除の原則などありませんから、この証言がもつ意味をもう少し検討してみましょう。
仮にT氏がN少尉の発言を正しく伝えており、かつ著者がT氏の発言を歪めずに引用しているなら(その場合でも、N少尉が事実をそのまま語ったということには必ずしもならないわけですが、その点はここではおきます)、否定派が援用する他の証言と矛盾することになります。『百人斬り裁判から南京へ』でも“大隊副官や歩兵砲小隊長が日本刀をかざして突撃するはずなどない”とか“小隊長が刀を抜くのを見たことがない”といった類いの「証言」がこれでもか、と引用されているのですが、T氏の証言を信じるのなら大隊副官が現に突撃して斬っているわけです(人数は別として)。否定派は両少尉の任務からいって捕虜などを斬っていたはずがない、と主張します。『百人斬り裁判から南京へ』にも「南京攻略戦は近代組織戦」だから両少尉が「軍刀で中国兵を斬る競争をするということは考えられない」と、原剛・元防衛研究所戦史部主任研究官の陳述書が引用されています。この「はずがない」論法も否定論が愛用するものです。なんといっても便利ですから。多くの証拠の積み重ねを無視して「虐殺なんてあったはずがない」と一刀両断にできますからね。しかし現実が建て前通りに動くなら、そもそも南京攻略戦なんて「あったはずがない」のです。上海派遣軍に与えられた任務は「上海附近の敵を掃滅し上海並びに其の北方地区の要線を占領し帝国臣民を保護すべし」というものでしたが、司令官松井石根は出陣前の宴席上、参謀総長陸軍大臣教育総監を前にして与えられた任務への不満を公然と口にし、南京占領を主張しています。なんとも立派な「近代組織」ですね。
なおこの点については専門家が「軍隊内務書」ではなく「陣中要務令」等を根拠に、大隊副官や歩兵砲小隊長にも捕虜などを殺害する機会があったと反論していること(笠原十九司、『「百人斬り競争」と南京事件』、大月書店)を付記しておきます。