シニシズムの問題

をまたきちんと考え直したいなと思っていた矢先の、この数日間の騒動でした。


http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20080104
http://d.hatena.ne.jp/yasudayasuhiro/20080105
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080105/p1
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080105/p2
http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20080106/p1
http://d.hatena.ne.jp/oteh/20080105/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080105/p3#c1199655760
私は過去にyasudayasuhiro氏のブログを読んだことがないので、ご自身の「解説」に異を唱える立場にはない。そうなんだろう、と思う。しかし、少なくとも誤読の余地があったということについては2名の第三者から指摘があるにもかかわらず、「それと「クッキーと紅茶」の人。なんでそんなにテンパってるの?」というかたちで問題を処理しようとしたところに私はむしろ関心をもつ。青狐さんのエントリを普段から読んでいる人間にとっては、別に「テンパ」った文章でもなんでもないことははっきりしているわけで。「ギャグ」が観客の一部の間ですべった時、観客のせいにすること。ここには北田暁大的な意味でのシニシズムの徴候が現われているのではないか。


北田氏の議論は2ちゃんのたとえばニュー速プラスなどより各種のウォチ板とか「知らない問題について評論家になる」ブログなどによりよくあてはまるのではないか、と思えることがある。南京大虐殺論争については「ありゃイデオロギー闘争だから」と片付けるのがネットの作法だと心得ているひとがけっこういるわけだ。しかしながら、例えば「笠原十九司の○○という本の△△頁の議論は〜という具合におかしい、このように考えるのは□□というイデオロギーのためである、というのも…」などといった具体的な議論にはついぞお目にかかったことがないのである。「肯定派は中国の顔色をうかがってる」の類いも同様。政治的配慮というなら秦郁彦は『南京事件』(中公新書)での犠牲者数推定の考察のなかで、「三・八万〜四・二万という数字なら、中国側も理解するのではないか、と思うのである」と書いているのだが、これは「中国の顔色をうかがってる」ことにならないのか? 「新書一冊すら」読まずに「ありゃイデオロギー闘争」だなどと見切ることがなぜ可能なのだろうか? 要するに、はじめから「イデオロギー闘争だ」という解釈枠組みをもっていて、それでもってネットの「論争」をちらっとながめてレッテルを貼ってるだけなのである(違う、という人がいるならぜひここでどこがどう「イデオロギー闘争」なのか、具体的に語ってみせてほしい)。別の言い方をすれば、「イデオロギー闘争」なんて高尚なはなしじゃないんだよ。