第6師団下士官の手帳、発掘

コメント欄でkiriko_mさんからNHKのローカルニュースで報じられたことをご教示いただきましたが、西日本新聞でも報じられておりました。

 1937年の日中戦争で旧日本軍が関わった「南京事件」で、熊本近代史研究会(会長=小松裕・熊本大教授)は7日「中国人捕虜300人、全員を殺した」と解釈できる書き付けがある熊本県出身兵の従軍手帳を入手した、と発表した。
(中略)
 手帳には、南京が陥落した37年12月13日に戦闘に参加したとの記載があり、翌14日の箇所に「約三百捕領ス 全部殺ス」と書かれていた。会は「前日の戦闘での捕虜300人を第6連隊が受け取り、翌日全員殺害したと考えられ、国際法上、不法な『虐殺』とみなせる」と話した。


 南京事件の犠牲者数や、戦争中の不法殺害(虐殺)の定義には諸説あり、立命館大の北村稔教授(中国近現代史)は「捕虜として待遇すべきかどうかは状況によっても異なる。そもそも一兵士の日記だけで『虐殺』の証拠とするのは危険だ」と話している。

秦氏の『南京事件 増補版』には「なお南京戦に参加した師団のうち、第六師団だけは偕行社版の『南京戦史』に不法殺害を思わせる手記、日記の類いが(中略)登載されていないので、連隊会は第六師団を担当した編集委員の努力に感謝したという話が伝わっている」(290-291頁)という記述があって、これは風聞にすぎないと言えば言えますが、師団長が戦犯裁判で死刑になった第6師団関係者なら他の部隊の関係者以上に資料の押さえ込みをはかったとしても不思議はない、という意味で一定の信憑性はあるかと。
この記事で興味深いのは北村稔・立命大教授のコメントを取っている点です。もちろん、この記述を裏付ける別の資料を探すことが重要、というのはそれ自体としては正しいのですが。例えば秦さんであれば、すでに南京が陥落した14日の記述であることを重視して「状況によっても異なる」という懐疑論は多分述べないだろうと思われます(「実物を見ていないので……」といった留保ならつけるかもしれませんが)。


ちなみに偕行社の『南京戦史資料集I』に収録された第6師団の「戦時旬報」(12月1日から20日までの分)には「十二月十二日(十三日)」の項に「左翼隊に属する騎兵聯隊は〔12日の〕夕刻新河鎮に於て下関方面より南下する約一万の敵と遭遇激戦後死体約一千を残し対岸三角洲に壊走せしむ」という記述があります(カタカナをひらがなに改めた)。