ことさら「諸説ある」と言われることの意味

今年の8月17日に asahi.com に掲載された「軍都の風景2 南京大虐殺」という記事には南京大虐殺についての用語解説がついているのだが、驚くべきことにその大半は犠牲者数をめぐる“論争”についての記述に費やされている。

  南京事件南京大虐殺) 1937年12月、旧日本軍が南京で捕虜や市民の殺害、略奪に及んだとされる事件。中国側は、戦後の「南京軍事法廷」の判決などをもとに「犠牲者は30万人」と主張。日本の研究者の間では「約4万〜20万人」の説が多数だが、「虐殺はない」との意見も。外務省は「殺害や略奪は否定できないが、被害者数の認定は困難」との公式見解を出している。

書き手の意図がどうであれ、結果としてこうした記述は「犠牲者数が不明で、諸説ある」ことこそが南京事件に関して特筆すべきことである、と主張していることになる。例えば国際法の歴史という観点から言えば、事件当時外務大臣であった廣田弘毅東京裁判において責任を問われ、有罪となったことは非常に大きな意味をもつことである。他にも南京事件を近現代における大量殺害や戦争犯罪のなかで際立たせている事柄はいくつも思いつくが(例えば家永教科書裁判における争点の一つとなったことなど)、この用語解説はよりにもよって「犠牲者数については諸説ある」ことを選んだわけである*1


だが一般に大量殺戮は、犠牲者数を明らかにするための証拠をも抹殺するのであって、犠牲者数が極めて正確に判明しており異論がない大量殺戮の事例があるとすれば、その方が特筆に値する事柄である。例えば、広島での原爆による犠牲者数については「(1945年末までに)約14万人」という推定が一般的に受け入れられている。しかしこれは日本国内においてのはなしであって、海外においては必ずしもそうではない。この点については以前にも論じたことがあるのだが、今年の2月に邦訳が刊行された(原書は2002年)イェルク・フリードリヒの『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940-1945』(みすず書房*2の第2章「戦略」の注84の記述を紹介しておきたい。

(……)1951年の日米合同調査報告書は死者数を64,602人としている.死者数を最大に見積もっているのは1961年の日本原水協で,119,000人から133,000人としている.筆者は一般に流布している,死者80,000人という数字を採用した.

私たちが普段、原爆による犠牲者数をめぐる「諸説」の存在を意識しないでいられる最大の理由は、大半のアメリカ人が犠牲者数についての日本側推定に異議を唱える必要性を感じていないからだろう*3。これに対して、南京事件に言及する際には「犠牲者数については諸説ある」と付記するのが当たり前であるかのような風潮の存在は、虐殺の規模をより小さなものだと思いたい欲望がこの社会でどれほど一般的であるかを明らかにしていると言えるだろう。

*1:南京事件に対する戦後日本社会の認識の不十分さを批判的に記述するという文脈においてであれば、「諸説ある」ことは重要な特徴であると言えるが、もちろんこの用語解説にそうした意図はうかがえない。

*2:この本については近いうちにまたとりあげる予定。

*3:もちろんこれは、原爆投下の正当性を疑わないアメリカ人が多数いるから、でもあろう。