「虐殺」の定義

このエントリのコメント欄で、厘斗さんが「虐殺」の定義をめぐる議論を吹浦忠正氏と行なっていることを報告しておられる。「数学屋」さんが「定義」にこだわっていたことは記憶に新しいし、南京事件の犠牲者数が議論される際には必ずといってよいほど問題になることである。
確かに事実に関する認識を共有していても「虐殺」の定義次第で結論が変わってくることはあるわけで、定義を論じることに意味がないとは言わない。ただ、その際次の点に留意しておく必要があると思われる。


ここで「数学屋」さんにならってヴィトゲンシュタインを援用しておこう。「家族的類似 family resemblance」の概念である。ヴィトゲンシュタインは「ゲーム」*1という語を例にとり、「○○ゲーム」と呼ばれるようなすべてに共通のものはなにか? と問う。たとえばすべての三角形は「3つの辺をもつ」という共通点をもっている。3つの辺をもつものは三角形であり、3つの辺をもつものだけが三角形である。だが、「ゲーム」の多様性を考えれば、この語で呼ばれる諸々の活動すべてに「共通」するなにかをみつけることはできない。だとすると、「ゲーム」という語は恣意的に用いられているということだろうか?
そうではない。すべての「ゲーム」に共通するなにか(ゲームの「本質」)は存在しなくても、「互いに重なり合い、交差しあった類似性、あるときは全体的な、またあるときは細部の類似性の複雑なネットワーク」があるからである。こうした類似性のネットワークを、ヴィトゲンシュタインは家族の風貌にみられる類似性によって説明している。ある一族すべてに共通する風貌上の特徴などなくても「家族はお互いに似ている」ことは可能である。父と息子がよく似た目と鼻をもち、祖父と孫とがよく似た耳と顔の輪郭をもっていれば、この3人を並べて「似ている」ということができるように(『哲学探究』、66-67節を私なりにパラフレーズ*2


さて、私たちが日常的に用いている概念を思い浮かべてみると、「三角形」のように必要十分条件を明示できるものの方が少ないことに気づくはずである。「虐殺」もまた「家族的類似」で結びついた一群の現象を意味するものとして考えたほうが妥当である。ここを含むさまざまな場で「虐殺」の要件が語られてきた。思いつくものを列挙してみよう。

  • 犠牲者の苦しみを増すような方法による殺害
  • 不法な殺害
  • 意味のない、あるいは必要性のない殺害
  • 多数の犠牲者を出す殺害
  • 遺体が著しく損壊しているような殺害
  • 高齢者や幼児など、抵抗力のないものの殺害

などなど。これら(他にももちろんあろう)の要件のうちのいくつかが備わっているときに私たちは「虐殺」という言葉を用いるが、「いくつ」あればよいという基準はなく、一つでも「虐殺」と呼ばれることだってある。あらゆる「虐殺」の用例に共通する要件、虐殺の必要十分条件などないし、なくても「虐殺」という語を有意味に用いることはできるのである。むしろ無理に「虐殺」の要件を確定しようとするとさまざまな無理が出てくるものである。例えば遺体が著しく陵辱されているけれどもそれらがすべて死後のものであるとしよう。見るものには実に凄惨というイメージを与えるけれども、犠牲者は生前苦しんでいないから虐殺じゃない、といえるだろうか? また南京事件で実際にあったケースだが、「降伏すれば殺しはしない」「これから食事につれてゆく」とだまして捕虜を殺害した場合、機関銃であっさり殺害したから「虐殺」じゃない、というべきなのだろうか? 「処刑」の際日本刀で斬首することにし、一刀では首を落とせず何度も斬りつけた(そうした体験談、目撃談はいくらでもある)場合、違法じゃないから虐殺じゃない、といえるのだろうか?


ここで留意しておかねばならないのは、現在の文脈において南京事件を論じる際、「虐殺」の語に法的な含意はいっさいない、ということである。例えば「虐殺」を行なった者の処罰は求められているが「虐殺」以外の殺害を行なったものの処罰は求められていないとか、「虐殺」の被害者は賠償請求権があるが「虐殺」以外の犠牲者には請求権がない…といったはなしではない、ということ。とすれば、南京における「虐殺」の外延が一意に決まらなければならないという、実際上の要請もないわけである。


当然のことだが、「虐殺」の定義を厳格化すればするほどその犠牲者数の推定は少なくなる。被告を弁護する立場からは厳格な定義を主張して犠牲者数を少なく見積もることに意味はあるだろう。だがわれわれは旧日本軍の弁護人ではない。歴史認識が過去を断罪することではないのだとすると、同時に過去を弁護することでもないはずである。無自覚なうちに旧日本軍の弁護人の立場に立ってしまうとどういうことになるか…をよく示しているのがkhideaki氏であり吹浦氏ではないだろうか。khideaki氏が「東京大空襲や原爆は虐殺」と主張しつつ、南京戦については「戦闘終了後の被害者だけが虐殺の被害者」と主張する、というダブルスタンダードについてまったく釈明できなかったことは、みなさんご記憶であろう。吹浦氏も、南京大虐殺について論じる際にはご自身の体験から「耳をそぎ、眼球をつまみ出し、さらに殴り、蹴りして絶命させる」様な事例を挙げて「虐殺」を定義しているのに対し、アウシュビッツ、広島・長崎、ルワンダなどの事例についてはそうした限定なしに「虐殺」という語を使用しており、そこを厘斗さんに追求されているというわけである。「虐殺」は必要十分条件を持たない、外延が明確でない概念ではあるが、1人の人間が歴史上の諸虐殺を論じる場合には「定義」の厳格さをなるべく一貫させる、というのが誠実な態度というものではないだろうか。そして、刑事裁判制度に関する昨今の改革が示すとおり、「被害者およびその遺族のパースペクティヴに配慮する」ことが今日の日本におけるコンセンサスである、ということを改めて強調しておく。

*1:ドイツ語原文では Spiel で日本語にするなら「あそび」の方がしっくり来るように思うが、慣例に従う。

*2:なおこの発想はE・ロッシュらのプロトタイプ理論などにも継承されているが、それについてはここでは触れない。