御用学者とイエロージャーナリズムの華麗なタッグ
タイトルを見ただけで「あっ、ブーメランだ」と予想がついてしまう安定した産経クオリティのコラムですが、旅順虐殺事件に関して「その際の日本政府の見事な対応は、次回紹介する」として予告されていた連載第3回目のコラムでは期待通り産経&八木的“ぼくのかんがえただいにっぽんていこくのれきし”がファンタジーかつプロパガンダであることを立証してくれています。
明治27(1894)年11月、大山巌司令官率いる第2軍に属する第1師団・混成第12旅団が、わずか百余人の死傷者を出して旅順を陥落させた。ところが、この件を当時台頭していた米国のイエロージャーナリズムの新聞『ワールド』が「日本兵が民間人を殺害し、手足を切断するなどして略奪も行った」と報じた。
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しかし、当時の日本政府は、直ちに5項目の弁明を英紙『タイムズ』に掲載し、陸奥宗光外相も「旅順で殺害された平服を着た者は、大部分が姿を変えた兵士であった。住民は交戦前に立ち去っており、日本軍は軍規を遵守していた」との声明を発表し沈静化に努めた。その結果、「日本人=野蛮」との印象が世界に広がることを防いだ。
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相手は隙あらば“事件”を捏造して「日本は残虐だ。卑怯だ」と国際社会に悪宣伝する。“事件”は現在のものでも過去のものでもよい。自らを“被害者”として日本の加害性を宣伝し、日本に非難の矛先が向けばよいからだ。
(後略)
当ブログの読者の方に対しては、いまさら旅順虐殺事件の史実性をご説明する必要などないわけですが、『日清・日露戦争』(原田敬一、岩波新書、2007、シリーズ日本近現代史3)および『旅順と南京』(一ノ瀬俊也、文春新書、2007、過去に言及したエントリはこちら)に基づいて、ここには書かれていない(産経新聞に)不都合な真実、をいくつか挙げておきましょう。
・第一報は11月28日のイギリス『タイムズ』紙(原田 2007、76ページ)。さすがに『タイムズ』紙を「イエロージャーナリズム」呼ばわりする勇気はなかったようです。
・日本軍(特に陸軍)はほとんど捕虜をとる気がなかった。捕虜の正確な数は不明だが、清軍が4,500人の戦死者を出した規模の戦闘でわずか355人(しかもそのうち259人は海軍陸戦隊が捕らえたもの。一ノ瀬 2007、75ページ)とも232人(原田 2007、75ページ)とも言われる。
・参謀総長の問い合わせに対し、第二軍司令官大山巌は「旅順市街の兵士人民を混一して殺戮したるは実に免れ難き実況」と、非戦闘員の殺害を認めている(原田 2007、76ページ、一ノ瀬 2007、75ページ)。
・出征した兵士や軍夫の日記、手紙などは捕虜や敗残兵、非戦闘員の殺害を記録している(一ノ瀬 2007、88〜107ページ)。さらに、第一師団長が「土民といえども我が軍に妨害する者」は皆殺しにせよ、ないしそれに類する命令を出していたことを伺わせる日記の記述もある(同書、78〜79ページ、81ページ、92ページ)。
八木氏は「今日の日本政府に必要なのは、この明治政府の、相手の悪宣伝には真正面から弁明するという気概だ」などと書いていますが、明治政府がやったのは「国際社会が詳しい情報を入手できていないのをいいことにしらを切り、責任者の処罰もせずにすませること」でしかなかったわけです。なお公平のために記しておくと、旅順戦では清軍の側にも残虐行為(死体への陵辱など)が見られました。