ポスト『南京戦史』時代の否定論プロパガンダ

『偕行』が1984年から翌年にかけて連載した「証言による南京戦史」、およびそれをまとめた『南京戦史』、『南京戦史資料集I、II』は日本における南京事件論争史において一つの画期をなす出来事だったと言える。というのも、旧陸軍将校の親睦団体が収集した資料によって数万にのぼる捕虜、敗残兵の殺害があったこと、現地軍の幹部が軍紀の頽廃を認識していたことが異論の余地無く明らかになったからだ。もちろん『南京戦史』は史料から判明する数字をいわば割引して事件を評価しているが、資料の収集そのものは(それまで日本政府がネグっていたことを考えると)当事者なりに誠実に行なったと言ってよいのではないだろうか。第16師団師団長だった中島中将の日記などは遺族から提供されたものだが、人によっては公開せずに処分してしまってもおかしくない内容の日記類を提供し、公開に同意した人々の公正さは高く評価されるべきなのに、それを踏みにじる人々がいるわけである。

(…)
一、予備兵のだらしなさ
1、敬礼せず
2、服装 指輪、首巻、脚絆に異様のものを巻く
3、武器被服の手入れ実施せず赤錆、泥まみれ
4、行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曵く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)、銃は天秤
5、不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪
(…)
○徴発の不仕鱈は、結局与うべきものを与えざりし悪習慣なり
○徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食うに食なしの状を呈す
先に処女地に行く隊のみ、うまきことをすることとなる
○兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか
旅団司令部にてもぼやぼやし居れば何んでも無くなる、持って行かる、馬まで奪られたり
(歩兵第103旅団長山田少将の日記、12月24日)


一、日本人は物好きである 国民政府というのでわざわざ見物に来る 唯見物丈ならば可なるも何か目につけば直にかつぱらつて行く 兵卒の監督位では何にもならぬ 堂々たる将校様の盗人だから真に驚いたことである
 自己の勢力範囲に於て物を探して往くというならばせめても戦場心理の表現として背徳とも思わぬでもよかろうが他人の勢力範囲に入り然も既に司令部と銘打ちたる建築物の中に入りて平気でかつぱらうというのは余程下等と見ねばならぬ


一、中央飯店内に古器物の展覧会跡あり 相当のものがあつて之を監視したが矢張りやられた とうとう師団長が一度点検した上錠をかけて漸く喰止めた位である


一、軍官学校校長官舎は蒋介石が居たとのことで予が占拠する筈にしてあつた 第九聯隊を出してまで取りて置いたのに自己の宿営区域にもあらざる内山旅団〔野戦重砲兵第五旅団〕司令部が侵入して之も亦遺憾なく荒して仕舞つた
 とうとう中央飯店の家具を持ち運びやつと住える様にしたのである


一、戦場には所有権否定案が如実に表現して居る 我々も支那人に対しては怖られて居るが日本人仲間の間所有権否認は之れ亦功利主義利己主義個人主義の発達した一大現象を見ることが出来るだろう


一、軍隊で自動車を捕獲して検査小修理を兵卒がやつて居る
 通りかかりたる将校が一寸見せろとのぞき込む つづくつて其儘乗り逃げして往く


一、最も悪質のものは貨幣略奪である 中央銀行の紙幣を目がけ到る処の銀行の金庫破り専問のものがある そしてそれは弗に対して中央銀行のものが日本紙幣より高値なるが故に上海に送りて日本紙幣に交換する 此仲介者は新聞記者と自動車の運転手に多い 上海では又之が中買者がありて暴利をとりて居る者がある
 第九師団と内山旅団に此疾病が流行して張本人中には輜重特務兵が多い そして金が出来た為逃亡するものが続出するということになる 内山旅団の兵隊で四口、計三、〇〇〇円送金したもの其他三〇〇、四〇〇、五〇〇円宛送りたるものは四五十名もある 誠に不吉なことである
(第16師団師団長中島中将の日記、12月19日)

高級指揮官のこうした認識を知っていれば、「南京攻略戦に参加した日本軍の軍紀は厳正だった」などというのが世迷い言に過ぎないことは明白なのに。次に引用する(有名な)中島師団長日記の一節(12月13日)は聞くところによると歴史教科書にも(その一部が)収録されたことがあるとのこと。

一、天文台附近の戦闘に於て工兵学校教官工兵少佐を捕え 彼が地雷の位置を知り居たることを承知したれば彼を尋問して全般の地雷敷設位置を知らんとせしが、歩兵は既に之を斬殺せり、兵隊君にはかなわぬかなわぬ
(…)
一、本日正午高山剣士来着す 時恰も捕虜七名あり 直に試斬を為さしむ
小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頚二つを見事斬りたり
(…)
一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境内の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見 到底其始末に堪えざる程なり
一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたるも 千五千一万の群衆となれば之が武装を解除することすら出来ず唯彼等が全く戦意を失いぞろぞろついて来るから安全なるものの 之が一旦騒擾せば始末に困るので
部隊をトラックにて増派して監視と誘導に任じ
十三日夕はトラックの大活動を要したり 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速には出来ず  斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
一、後に至りて知る処に拠りて 佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇 其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千人あり 尚続々投降し来る
一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず 一案としては百二百に分割したる後適当のカ処に誘きて処理する予定なり

こうした史料の存在が要点だけでもきちんと教えられていれば、「南京大虐殺は真っ赤な嘘」というのがそれこそ「真っ赤な嘘」であることは誰にでもわかる。だからこそ、『南京戦史』以降の南京事件否定論はいっそう狡猾にというか、巧妙にというか、悪質になってきているのである。
その基本的な戦略は3つに整理できよう。まず殺害したことが否定し切れない場合は正当化する。南京の中国軍将兵に捕虜資格はない、といった類いの議論である。捕虜資格がなければ殺してかまわないというのが非常識なはなしなのだが、だいたい「捕虜資格」をガチガチに限定して捕虜資格のない人間は殺してよいというなら、敗戦後降伏した日本軍の将兵は皆殺しにされても文句は言えなくなる。というのも、「捕虜にならない」はずの日本軍将兵を降伏させる為に、日本軍は彼らが「捕虜ではない」という立場を(もちろん方便としてだが)とったからである。
第二が、豊富な証拠を無視して(そしてそもそもそうした証拠があることを知らない人間に対しては証拠の存在を隠して)、やれ証拠写真は捏造だったなどといい募るというもの。今回の動画も同じパターンである。伊藤市議はまんまとこれに引っかかった(あるいは引っかかったふりをしている)わけ。これにはたいてい「南京事件プロパガンダだから捏造」というおまけがつく。これがプロパガンダというものを(おそらくは意図的に)矮小化した認識に過ぎないことはすでに述べた。
第三は南京事件に「独自」の定義を与えて「ほら見ろ、定義通りの事件なんて起こってないじゃないか」というタイプ。虐殺の多くが城外でおこなわれたことは共通了解であるはずなのに、一生懸命国際安全区の中で起こったことを「データベース」化して「南京大虐殺はなかった」と主張したりするのがこのタイプ。しかし大規模な戦争犯罪を問題にするときに「定義」から入るというのは本末転倒である。個別的な事例を積み重ねる中で全体像が明らかになり、「総合するとかくかくしかじかのことがあったと言える」という認識に至るのがスジというもの。