捕虜殺害の連続写真、発見

今日8月14日の毎日新聞(大阪本社)朝刊、社会面に「「抗日掃討」の記録写真 上海近郊旧日本軍が撮影 46枚発見」という見出しの記事が掲載されています。「土匪の掃討」として上海近郊の村、銭家草を襲撃した際のもようを軍の写真班が撮影したものを、写真班の助手を務めていたらしい兵士が軍事郵便で親族の家に送ったもの、とのこと。旧日本軍の戦争犯罪に関する記述を含む手紙などが軍の検閲をすり抜けて届くケースがあったことはこれまでも知られていましたが、これもそうしたケースだったようです。
都内の小物市場で売られていたというこの写真ですが、毎日新聞では同じ兵士が送った手紙(国立歴史民俗博物館に収蔵)、兵士が所属していた中隊の中隊長がこの兵士の家族に送ったハガキ(やはり歴博に収蔵)を調査して写真の裏付けをとり、さらに上海特派員が現地調査して祈念碑の存在を確認し、「銭草村惨案」が現地で語り継がれていたことを確認したとのこと。写真への加工の有無も専門家に検証してもらった、とわざわざ断り書きしています。
紙面で紹介されている写真は3枚。家屋に放火する日本兵、捕らえられ一列に座らされた現地男性たち(「銃殺が行はれ初めた」とのキャプションあり)、死体を埋める穴を掘らされる現地男性たち(「自分の這入る穴を一生懸命に掘って居ます」とのキャプション)。識者コメントは笠原先生です。

 「日本軍の治安戦 日中戦争の実相」の著者、笠原十九司(とくし)・都留文科大名誉教授(日中関係史、中国近代史の)話 1937年7月7日に始まった日中戦争で、日本軍の作戦や捕虜の扱いの証言は多数ある。「南京事件」(37年12月)などを巡る写真も伝わっているが、撮影時期や場所があいまいで信憑性に欠けるものも少なくなかった。今回見つかった写真は撮影時期・場所が特定できるもので、第一級の史料といえる。文書などで当時の様子は知っていたが、生々しい連続写真は極めて価値が高い。

なおネトウヨには難しいかもしれませんが、「撮影時期や場所があいまいで信憑性に欠けるものも少なくなかった」は「少ないながら、撮影時期や場所がはっきりしていて信憑性のあるものもあった」ということを含意します。当ブログで「証拠を出せ? 出したらちゃんと自分の目で見るんだろうな?」の一環として紹介したものもその一例ですし、『私の従軍中国戦線 新版 村瀬守保写真集』などもそうです。


追記:記事中では、写真を郵送した兵士の所属が「中支那派遣軍」「近衛師団の後備歩兵大隊」とされていましたが、『南京戦史資料集I』で確認したところ、近衛師団後備第1〜第4大隊が中支那方面軍隷下の第十軍直属の兵站部隊のなかにリストアップされていました。中支那方面軍は38年2月に中支那派遣軍に改組されており(司令官も松井石根から畑俊六に交替)、また内地帰還が38年12月と記事にありますので、その間中支那派遣軍の指揮下にあったということでしょう。