『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』について(1)

以前に言及した巫召鴻著(山田正行解説)、『「ザ・レイプ・オブ・南京」を読む』(同時代社)はとりあえず山田氏による「解説」を読了し、注釈については4分の1ばかり読んだところ。全体として“なにからなにまで弁護”しようとしているわけではないが、批判への反論と積極的な意義の主張が基調になっているのは本書の企画からして当然であろうし、批判なら他の論者から行なわれればそれでよいのだから訳者と解説者が率先してやることはない、とは言えるだろう。全体的な評価はまた改めてエントリを立てるとして、とりあえず気がついたことを二つばかり。


チャンは第2章「恐怖の6週間」の後半(原書ペーパーバックの54ページ)で次のような問いを立てている(訳文は本書のものをそのまま使った)。

 さて、いよいよ最も気がかりで最も困難な疑問を取り上げなければならない。それは南京における日本人の心の状態である。小銃と銃剣を握って、そのような暴虐を犯した十代の兵士たちの心の内側はどうなっていたのだろうか。

これに関する訳者の注釈(64ページ以降)は、日本側の研究者(名前が挙げられているのは吉田裕)からのアイリス・チャン批判として「日本側の研究をふまえていない」というものがあったことを受けて、その事実自体は認めながら“はたして(虐殺発生の背景に関する)日本側の研究をふまえていたとしても、チャンの疑問は解消しただろうか?”と反問するという内容になっている。ここでは訳者の再反論そのものには触れないが、訳者も注釈をつけていないチャンの基本的なミスを指摘しておかねばならない。それは原文で"teenage soldier"、訳文で「十代の兵士」とされていることである。第二次世界大戦の米軍には十代の兵士が多数いたが、この当時の日本軍には十代の兵士は例外的にしか存在せず(なにしろ徴兵検査を受けるのが20才の時なのだから)、まして予備役、後備役を多数動員した上海〜南京戦の場合には中年にさしかかった兵士が多数いたのであり、日本側の研究はほぼ例外なしにこの点を重視している。チャンがわざわざ「十代の」という一語を入れたことに意味があるのかどうか、つまり単に「兵士といえば十代が多いだろう」という先入見にもとづく枕詞にすぎないのか、それとも相対的にナイーヴであろうと想定できる十代の(とチャンが誤認した)兵士たちが残虐行為を行なったことに特に問題性を見いだしたのか、判断するのは難しい。もし後者だとすると、やはり日本の兵役制度についての無知ゆえに誤った問いの立て方をしてしまったという評価は避けがたいだろう。
それとは別に、このような基本的なところでミスが生じるというのは、アメリカにおいて旧日本軍についての研究の認知度がいかに低かったのかを物語っているように思われる。


もう一点は解説の中での、小川関治朗日記の解釈をめぐる部分。チャンの本が話題となった理由の一つは、上海派遣軍司令官朝香宮の責任を(つまりは皇族の責任を)強調した点にあるわけだが、このチャンの解釈を擁護するために解説者は第十軍法務官小川関治朗の12月8日の日記から次の一節を引用している(本書172-3ページ、解説者はカタカナ書きのまま引用しているが、ここではカタカナを平仮名に改めた)。

或人曰く 柳川部隊は国策を変ぜりとの噂ありと その意味は南京まで追撃することは政府の方策にあらざりしと

念のため、続きを引用しておこう。

果して斯かる国策ありとせば現地に対する不認識の結果なりと信ず 当時の軍の情勢を視るときは当然南京を攻撃すべきものなり 支那の現状に鑑み不徹底の処置は日本の為に累を将来に残すものなり 結局机上の論程恐るべきものなし

さて、解説者の山田氏は「何故、そのような「噂」あるいは「空論」が出たのかを考察する必要がある」と述べ、12月8日が「南京を包囲する二日前」であり、「軍人の立場に即して見るならば、「国策」を勝手に変えるという問題だけでなく、進撃して勝利を得ようとする段階に至りながら、それを放棄するという、軍人として考えられない内容」であると評している。
さらにこの日付が「法務官の小川が(…)朝香宮が着任したのを知った三日後」であることに「注目」し、この日記の記述を「柳川軍が南京攻略による戦功に意欲を持たなくなったこと」の現れとして解釈する。つまり第十軍内部に(そして別の資料を援用しつつ、第16師団にも)“労せずしてうまい汁だけ吸う”ことへの反発があった、というのである。結論として、朝香宮の存在が「血統論や身分制が組織に強まるとき、停滞、硬直、衰退、腐敗などによりその組織が過ちを犯す」(172ページ)という現象をまねいたのであり、「軍人の松井よりも、皇族の朝香宮の方に責任があるとなれば、通説とされている“軍部の独走”に疑問を抱かせる」(171ページ)、と言おうとしているようである。
だがこれは、明らかに日記の誤読であろう。日本の「国策」が当初から南京攻略だったわけではないことは、いくつもの資料によって明らかになっている。むろん、松井石根を筆頭に南京攻略を考えていた軍人は何人もいた。しかし上海派遣軍に与えられた任務は上海居留法人の保護であり、第十軍の任務は上海派遣軍の援護であって、南京攻略が下令されたのは現地と中央の一部軍人が呼応した「独走」を、軍中央が追認してしまったからである。その意味で第十軍が「国策を変ぜり」という「噂」が出るのは当然であり、小川日記はその噂に反論して、「当時の軍の情勢を視るときは当然南京を攻撃すべきものなり」と南京攻略を支持しているのである。「進撃して勝利を得ようとする段階に至りながら、それを放棄するという、軍人として考えられない」ことを考えていたわけではないのである。
朝香宮が南京防衛軍への投降勧告、統制入城といった松井石根の措置に不満をもっていたことは、上海派遣軍参謀長飯沼守の日記に記されており、朝香宮が虐殺の発生に責任を有することを否定する研究者は(もちろん、ここでは否定論者は除外している)いないだろう。しかし朝香宮の責任を強調しすぎるなら、彼が司令官に着任した12月2日以前にすでに発生していた残虐行為が不当に軽視されかねない。戦後の戦犯裁判当時の認識において最も欠けているのが、虐殺や性暴力は南京陥落後に突如始まったのではなく、上海戦、杭州湾上陸の段階ですでに始まっていた…ということだからだ。