石川達三、『生きている兵隊 【伏字復元版】』、中公文庫

中央公論の特派員として38年1月に南京入り、第16師団歩兵第33聯隊の兵士に取材し、また上海でも取材を行なったうえで書かれた、極めてノンフィクションに近い小説。部隊の行動などが史実とよく一致することは歴史家も認めている。南京で国民政府発行の紙幣を安く買い、上海で円と交換して大儲けをした者がいることまで書かれているが、これは上海取材の成果か。


注目に価するのは、将兵の出身階層や性格ごとに異なる戦場への適応(不適応)具合が描き分けられている点。やや図式的にも思えるが、これまでに読んだ研究書や従軍記などに照らすと頷けるところが多く、兵士たちからの取材結果をいくつかの人物類型に巧みにまとめあげているように思われる。南京事件を「知る」ための資料とはならないにしても事件を「理解する」うえでは貴重なテクストと言えるだろう。


半藤一利による解説について。日中戦争下の中国民衆にとっては「戦場も銃後もなかった」ことを指摘した後で、このように続けている。

戦闘員か非戦闘員か、曖昧模糊としている。白か黒かはっきりすることを好む日本人のもっとも不得手とするところで、敵と民衆とが区別しにくくなればなるほど、やむを得ず民衆全部を相手にしなければならなくなる。結果は、ときとして略奪、強姦、殺人という非人間的行為が実行されることになった。
(210ページ)

日本人論として「白か黒かはっきりすることを好む」というのは初耳である。もちろん、単純な二分法への傾斜というのは人類そのものがもっている認知バイアスであると言えるが、日本人論としてはよくも悪くも「あえて白黒をはっきりさせない」、というのが一般的なのではないか? 植民地独立戦争のように、戦闘員と非戦闘員の区別が曖昧な敵を相手とする戦争が得意な民族などあるのだろうか? どうも、日本軍を弁護したいがあまりのためにする議論であるように思えてならない。「敵と民衆とが区別しにく」いような戦争の様相そのものを批判すればよかろうに(補給の軽視など、旧日本軍に特徴的な要因は別として)。