『「百人斬り競争」と南京事件』書評ほか
昨日の朝日新聞に、笠原十九司教授の『「百人斬り競争」と南京事件 史実の解明から歴史対話へ』(大月書店)の書評が掲載されていました。評者は赤澤史郎・立命館大学教授。「メディア・国民の喝采で英雄視」という見出しが示すように、民衆の戦争協力という観点を重視した書評です。
衝撃的なのは、その当時こうした斬殺を、将兵の家族を含む地域社会が称賛し、彼らを郷土の英雄扱いしていたことだ。(・・・)
これについては次のような民衆擁護論があり得るかもしれません。いわく、報道では幾多の○○人斬りは戦闘の戦果として扱われていたのであり、「上海居留法人保護」のために出兵したと知らされていた国民が郷土部隊の戦果を素直に喜んだのは無理もないのではないか、と。しかしながら、「なぜ戦線が上海を越えて南京へと向かうのか?」という点についての批判意識の欠如は、上記の理由によっては擁護できません。また中国軍の過小評価がいかに一般的であったとはいえ、近代戦において日本刀による「戦果」が華々しく報じられることについては、多くの人間が疑問を感じてしかるべきだったのではないか、と思います。
ところで、「戦争を語り継ごうブログ」さんが産経新聞コラム「正論」の「「8月15日」 慶応大学教授・阿川尚之 終戦は日本の「選択」だった」(阿川尚之・慶応大学教授)を紹介しておられます。
ところで「終戦の詔勅」以来、「敗戦」はずっと「終戦」と呼ばれている。日本人は不都合な真実をあいまいな言葉で糊塗(こと)するのが得意だ。「終戦」という言葉が定着したのは、戦争に負けたと言いたくない政府の意図を、多くの国民が共有したからだろう。右の陣営も左の陣営も、敗戦という言葉を避ける点において、奇妙に軌を一にしている。
「終戦」が「敗戦」の婉曲語法として用いられているという指摘はちょくちょく見かけますが、しかし「左の陣営」も「敗戦という言葉を避け」てますかね? まあこの点は、どこまでを「左の陣営」とするかという問題もあるし定量的に語るにはそれなりの力作業が必要ではあるのですが。もう一点、上記書評と関連して。
一方左の勢力は、無謀な戦争を起こしたのは天皇の下の政府と軍部であり、国民は犠牲者に過ぎないと主張する。自分たちは戦争を望まなかった。したがって負けた責任はない。とにかく戦争は終わったのだから、それで十分だ。今後憲法9条を守り戦争にかかわらないでさえいれば、平和は守れる。そう信じる。
(中略)
悪いのは軍人で国民は関係ないというのも、事実と異なる。無謀な戦争を遂行した軍部の指導者は万死に値するが、同時に多くの国民がそれを支持し、熱狂し、武器を取って戦った。負けたあとで犠牲者を装うのは、卑怯だ。戦後一貫して平和主義を標榜(ひょうぼう)する多くの新聞も、戦争中は国民を大いに煽(あお)った。
これも十数年前ならともかく、少なくとも現在の状況に照らせばかなり「藁人形叩き」っぽい。まあたしかに、いまでも「民衆は被害者」といった図式的なことを言う人もいるのかもしれない。しかし「民衆の戦争協力」の問題はいわゆる左派の研究者も含めて当たり前の研究課題となってますし、そのことは上記書評がよく示しているわけです。なお、南京事件70周年であった昨年の8月15日に、大阪のイベントで吉田裕・一橋大教授が行なった講演のタイトルもまさに「民衆の戦争協力を考える」でした。朝日新聞だって、昨年は自身の戦争責任を問う連載企画を行なったわけです(それが十分なものだったかどうかの評価は別として)。「左の陣営」のうち影響力のある論者やメディアで、いまだに「民衆はただの被害者」なんて言ってるところ、ありますかね? 当ブログでは右派の南京事件否定論などを俎上に載せてきましたが、同時に右派・保守派に属する人々の中にも「本当は負けていない、悪いのはアメリカだ、自分たちは犠牲者に過ぎないなどと、60年間ぶつぶつ言い続ける」(「正論」コラムより)態度とは一線を画す人々がいることは折に触れて紹介してきたつもりです。
はなしを『「百人斬り競争」と南京事件』にもどすと、書評が十分には触れていない(無理もないですが)本書の意義の一つは、小野賢二氏の調査結果をふまえて豊富に紹介された多数の「○○人斬り」の事例が、「百人斬り」論争における否定派の定番の主張を根底から覆したという点にあるでしょう。東京日々新聞の「百人斬り」報道のみを問題にするのはナンセンスであるということです。同時に、海軍の報告書では、日本刀の殺傷能力について相当高い評価がくだされている、といった興味深いデータも含まれています。どうせ否定派は本書を無視するでしょうが。