「合法/不法」論を超えて
先日言及した西日本新聞の記事には「戦争中の不法殺害(虐殺)の定義には諸説あり」という一節があって、「虐殺=不法殺害」(ないし「虐殺⊆不法殺害」)ということが前提とされている。南京事件を巡る議論の原点に東京裁判があることを考えると「合法か不法か」が焦点の一つとなることはやむを得ない側面があるとは思うのだが、他方で私たちが東京大空襲や広島・長崎への原爆投下を考える際にその不法性を(法廷なり歴史学の土俵なりで通用する水準で)精緻に考えているだろうか? という疑問も浮かぶ。東京大空襲や原爆投下は“犯罪”として裁かれることがなかったが、私たちが犠牲者中の軍人・軍属の人数や軍需工場勤務者の人数をまるで意に介さずにいられるのは、ある意味でこれらの爆撃が裁かれずに終わったからではないのか? 東京大空襲が「不法」な戦争犯罪であることをきちんと論証する準備のある日本人はどれくらいいるだろうか? 「無差別爆撃」を「軍事目標主義」に反する爆撃と理解するなら、軍事目標主義を掲げたハーグ空戦法規案はその名の通り「案」にとどまってしまっていたので、例えば「人道に対する罪」による処罰への懐疑論は東京大空襲免罪論にも利用できてしまうのである。
もちろん、私たちが東京大空襲や原爆の犠牲者のことを想起するとき、戦闘員と非戦闘員とを分けて考えるべきだといいたいわけではなく、被害者の視点からみれば合法/不法という区別は二次的なものに過ぎない、ということだ。例えるなら、危険運転致死の犯人を死刑にすることは不当不法であるにしても、犯人に向かって「この人殺し!」と叫ぶ遺族に「人殺しというのが刑法199条に該当する行為のことであるなら、彼は人殺しではありませんね」と諭すことに意味があるか? ということになろう。戦争自体が不当ないし不法な侵略戦争であるなら、侵略された側にとってはなおさらである。