「最終的解決」はむしろ現在進められつつある

ツイッターではすでに指摘しておられる人もいるが、念のためこちらでも。「最終(的)解決」という用語は日本の同盟国であったドイツの国家犯罪の(当事者が用いた)婉曲表現であるがゆえに注意を要するものではあるが、戦後補償問題という文脈においてはより切実な問題がある。先日、名古屋空襲で両足を失った女性の妹の「国は戦災傷害者が死ぬのを待っている」という言葉(を伝える記事)を紹介した。名古屋空襲の被災者は他地域の戦争被害者とともに今年「全国空襲被害者連絡協議会」を結成して国に補償を求める活動をしているが、国内外で公的な補償を求めている人々が共通して口にするのが「日本政府はわれわれが死ぬのを待っているのではないか?」という言葉だ。日本政府の中で特定の個人が明確にそうしたことを意識して対応を決めているかどうかは別として、従来とおりの不作為を続けることがどのような結果につながるかは明白である。したがって、戦後補償問題に関してわれわれが何かをしなければならないとすれば、それは「最終的解決」を阻止するため、であるはずだ。
また、河野談話には「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」という一節がある。これは狭義の「戦後補償」問題の枠組みからは外れることではあろうが、多くの被害者の希望でもある。「記憶」の問題はむしろ「解決」を拒否しているのである。この点では「戦後補償」にしぼった松尾氏よりも「日本軍「慰安婦」問題」についての「最終的解決に関する提言」を発表したとされる日弁連の認識の方が問題視されねばならないだろう。


さて、問題の解決策については「戦後補償問題=財源問題ではない」のひとことで尽きちゃってるので、ここではそれ以外の点について。

やはり、世の中になにがしかの影響を及ぼせる立場にあって、そのことから庶民にない恩恵を受けていた人々の責任と、一介の庶民の責任との間には、決定的な差をつけないと絶対おかしいと思います。
 それなのに、「日本人」ということで同じ責任にされ、その上、後の世代の者にまで「日本人」というだけでその責任が受け継がれるというのでは、全くもってド右翼の集団主義原理、血統原理そのものです。こんな左翼にあるまじきことを左翼が語ったから、反発した若い世代を続々と右翼に走らせたのだと思います。


 戦後左翼が「戦争責任」と言ったとき、誰に責任をとらせようとしたかというと、自分たちの頭の上に戦前戦中から居座っている支配エリートたちだったわけです。彼らが責任を負うべき相手は、アジアや日本の個々の戦争犠牲者でした。だから我々は、アジアの犠牲者に補償しろというのと同じように、戦争補償の精神に立った被爆者援護法の制定を求め、一般戦災者補償法の制定を求めていたわけです。元兵士に対しても、「恩給」ではなくて、補償と位置づけろと言ってきたわけです。
(http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__101212.html)

いや、「被爆者援護法」ができたとしても「一般戦災者補償法」ができたとしても、その財源が税金なのであれば「世の中になにがしかの影響を及ぼせる立場にあって、そのことから庶民にない恩恵を受けていた人々の責任と、一介の庶民の責任との間には、決定的な差」がついたりはせんでしょ。税金じゃなくて「無期限無利子の国債を発行して日銀が全額引き受けて原資を作る」というのでも同様。軍人や戦前の公務員(もちろん一定以上の地位にあった者に限定して)およびその遺族の恩給から財源を捻出するというのであれば「自分たちの頭の上に戦前戦中から居座っている支配エリート」に責任をとらせたと言えるかも知らんけど。
さらに、90年代以降の「戦後責任」に関する言説であれば私もそこそこ目を通してはいるわけだけど、少なくとも私が知る限り「支配エリート」と「一介の庶民」の責任(の重さ)になんの違いもない、なんて主張が影響力を持っていたなんて記憶、ないんですけど? 戦後世代がなぜ「責任」を負うのかという問題についても(「負わない」という主張を含めて)いろいろ議論の蓄積があるけれども、それを「血統原理」と評するのはあまりにも矮小化が過ぎるというもの。