「慰安所」制度と強姦

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idコールもらったので。id:crowserpent さん、このエントリにリンク貼ってもらってけっこうです。
一番有名なのは岡村寧次(敗戦時、支那派遣軍総司令官)の回想でしょう。岡村が中支那派遣軍隷下の第11軍司令官であった時の軍紀に関する所見を『岡村寧次大将資料(上)―戦場回想篇―』(原書房)から引用します。

 (二) 慰安婦問題を考える。昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。
 現在の各兵団は、殆どみな慰安婦団を随行し、兵站の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である。
(302-303ページ)

第一次上海事変の際には慰安所が強姦防止に役立ったと認識していますが、この時はそもそも陸軍が戦闘に参加した期間も短く、また兵士たちにとって「いつ帰国できるか分からない」という状況ではなかったという差異は重要です。また余談ですが、『岡村寧次大将資料』には敗戦前後の回想も含まれており、それを読めば河村たかしの「恩を仇で返す」メソッドの下司さがよくわかります。いずれ機会があればご紹介しましょう。
公文書としては例えば1938年6月27日に北支那方面軍参謀長名で出された通牒「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件」に次のような一節があります(仮名遣いを改めた、また全文は政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料で読むことができます。)

二、 治安回復の進捗遅々たる主なる原因は後方安定に仕する兵力の不足に在ること勿論なるも一面軍人及び軍隊の住民に対する不法行為が住民の怨嗟を買い反抗意識を煽り共産抗日系分子の民衆煽動の口実となり 治安工作に重大なる悪影響を及ぼすこと尠しとせず
而して諸情報によるに斯の如き強烈なる反日意識を激成せしめし一原因は各所に於ける日本軍人の強姦事件が全般に伝播し実に想像外の深刻なる反日感情を醸成せるに在りと謂う

ここでは慰安所への言及はありませんが、38年6月ですからすでに慰安所の設置がはじまって以降のことです。
慰安所」制度と戦時性暴力との関係では「慰安所」制度それ自体が性暴力の一形態であることや、「慰安所」制度が(高度分散配置などにより)慰安所の無い場所に駐屯している兵士に与えた影響なども無視できないのですが、取りあえずは直接関係する点についてのみ。


追記
『政府調査「従軍慰安婦」関係文書資料』で閲覧できるものとしては1939年に早尾乕雄軍医中尉(当時)が作成した報告書「戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策」のなかに「性欲と強姦」という項目があり、「軍当局は軍人の性欲は抑える事は不可能だとして、支那婦人を強姦せぬ様にと慰安所を設けた。然し、強姦は甚だ旺んに行われて」と指摘しています。この項目名が示すように早尾軍医中尉は強姦の原因を性欲に求める認識に縛られており、慰安所は設置されたもののその数が不足していることを強姦多発の原因の一つとしてあげています。しかしそれだけではなく、「○学生が西洋女に興味持つと同様で支那女という所に好奇心が湧くと共に内地では到底許されぬことが敵の女だから自由になるという考えが非常に働いて居るために支那娘を見たら憑かれた様にひきつけられて行く」(○は判読困難な文字*1)とも観察しています。報告書では具体的な事例もいくつか参照されていますが、この報告書は軍医部と軍法務部の依嘱によって作成されたものですから、当然法務部が把握していた事件についての情報は提供されていたものと思われます。

*1:コメント欄参照。