「証拠を出せ? 出したらちゃんと自分の目で見るんだろうな?」その1
一週間ほど前に、私のツイッターアカウントあてにネトウヨが「南京虐殺の証が有れば教えてくれる?」などとメンションを送ってきたので、定番の資料集リストを第一弾として提示したうえで「全部読み終わったらまた連絡ください。続きを教えます」と返答したところ、速攻で「転進」をはじめるというお決まりの結果となりました。ツイートをいくつか削除しているようですが、その削除されたツイートでは「この手の証言はずいぶん見てきたけど」「君の証と言うのは証言のみなのか?」だのと、ご丁寧に自らの無知を晒すハッタリをかましてくれていました。
これがまったく特別な事例でないことは当ブログの読者の方であればよくご存知だと思います。南京事件にせよ、旧日本軍「慰安所」制度にせよ、ネトウヨはそもそもどれほどの「証拠」が積み重ねられているかすら知ろうとしませんので、「資料集」として編纂され刊行されている「証拠」を突きつけられただけでも腰を抜かす以外に対応する術を知らないわけです。
さらに、歴史研究者が「証拠」として用いる史料がすべて「資料集」のかたちで刊行されているわけでもありません。今日から何回かに分けて、一般の読者にとっては「さほどアクセスしやすくないがアクセスできないわけではない」かたちで紹介されている「証拠」をとりあげてみたいと思います。
前置きとして一点だけ。時空間的に大きな広がりをもつ事象を「史実」として扱おうとする場合、一つ一つの「証拠」が明らかにするのはその事象のごく限られた側面にすぎません。全体像を描き出すには数多くの「証拠」が必要であり、現に「資料集」として刊行されているものに限っても大量の史料が「証拠」とされているわけです。ネトウヨの口ぶりを聞いているとあたかも紙ペラ1枚で南京事件の存否が決まるかのようですが――実際、彼らが自分の願望にかなうデマを「事実」として認定する際には、怪しげな紙ペラ1枚程度の「証拠」でそうするのですが――、そうした態度自体が歴史学における事実認定のあり方への無知を晒しています。
野戦重砲兵第15連隊の兵士として上海戦、南京攻略戦に従軍した兵士の『軍隊手諜』、陣中日記、回想録、写真(連隊のアルバム『支那事変紀念写真帖 昭和一二、三、四年 カト トセ』*1および「戦地写真」と鉛筆書きされた封筒に入れられた個人写真3枚)をご子息が提供されたもの*2。回想録は2007年当時「二〇年ほど前に」書かれたものと解説されているので、80年代の後半に成立したものと推定されます。『季刊 戦争責任研究』で紹介されているのはこれらの一部ですが、ここでとりあげるのはさらにその一部です。「証拠」を熱心に探してやまないネトウヨ諸氏ならば図書館で『季刊 戦争責任研究』の当該号にあたる手間をまさか惜しんだりはしないでしょう。
「上海付近まで」と題された回想録より。
鉄帽は五分の一位しか支給されず、それも英兵の様な型で変なものであった。服は暑い盛りに冬服を着せられた(補給できぬ為)。予防注射も間に合はず、乗船してからもした。(……)
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野戦重砲兵第15連隊は通常大佐が務める連隊長が少佐、兵士はすべて予備役兵か後備役兵、下士官も現役は連隊本部に一人だけ……という急ごしらえの、「全滅してもよい編成との噂」の部隊だったたため(同所)、装備も劣悪だったわけです。こうした実情を知れば、戦地写真について「装備が当時の日本軍のものとは違う」とか「当時は夏の筈なのに冬服を着ている」といった理由で直ちに「捏造写真」と断じることの無意味さも理解できるというものです。「○○のはず」をきっちり守るほどの国力は当時の日本にはなかったのですから。
「憲兵の検閲にあうと取られる為、台紙の中にかくして持ってきた」とされる個人写真より。
いわゆる「据え物斬り」の後の光景。1枚目が『戦争責任研究』に掲載された「写真(4)」、刀身を点検している人物を私がトリミングしたのが2枚目。被写体のアイデンティティは不明ですが、撮影者は特定されています。「据え物斬り」については回想録の中でも記述されていますが、その晩の様子が興味深いです。
夜半、幕舎からゴソゴソ出て行く者がいるので、どうしたと聞いたら、広瀬〔=昼間、捕虜を斬首した兵士〕が気になると云って、離れた首を胴体に合わせ土を被せて、気がすんだと云って入って来たと思ったら、すぐ鼾をかいて眠ってしまった。或る者は、俺じゃないと云って怒鳴って飛び起きた。要するに十人十色である。
(12ページ)
「すぐ鼾をかいて眠ってしまった」兵士にしても、死体をそのままにしておくことができなかったわけで、殺人にともなう興奮が冷めると罪悪感や後味の悪さを感じていたことがわかります。