南京事件否定論史上もっともシンプルな反論
このエントリに対して群馬県伊勢崎市の市議会議員、伊藤純子氏から、十条さんと私をごっちゃにしたうえで*1反論を頂戴したのだが…。
上記の映像は「日本は残虐な国家だ」として、日本との開戦の必要性を訴えるために1944年に制作されたプロパガンダ映画「バトルオブチャイナ」の映像フィルム。私が申し上げたいのは、この映像と、1945年に中国国民政党が制作した中国国民映画「中国の怒号」の映像フィルムと同一作品であること。このような新事実を「歴史の再検証としたい」と書いたつもり。
これに対して十条さんは、この2つにフィルムが同一のものであるか否かについては一切触れていない。私の主張をよく理解しないうちに、私の意見を捻じ曲げよとする行為は、南京大虐殺の生みの親で、変装好きの本多勝一と同じである、こう申し上げたいのであります。
「この2つに〔ママ〕フィルムが同一のものであるか否かについては一切触れていない」って…、『バトル・オブ・チャイナ』がプロパガンダ映画だってことは周知の事実だ、と書いてるじゃないですか。「このような新事実」って、戦争プロパガンダ映画に史実とは異なる「イメージ映像」が多用されることなんて、いまさら鬼の首でもとったように騒ぐことじゃない、ってことですよ。戸井田とおる議員の自称新発見と同じだ、と。私個人は南京事件について論じる際に主として日本側の文書資料に依拠しており、写真や映画に依拠したことがない(いわゆるマギー・フィルムについてだってほとんど、あるいはまったく言及したことがないはず)からこの種の問題に関心がないけど、『バトル・オブ・チャイナ』の映像が誤って南京大虐殺の実写映像(写真)とされている例があることについては、すでに「大虐殺=あった」派の人間だって認めていて*2、別に目新しいはなしじゃないんですよ。
肝心なのは、まず第一に、少なくとも研究者レベルでは『バトル・オブ・チャイナ』を南京大虐殺の「証拠」と考えたりはしない、ってこと。秦郁彦、笠原十九司、藤原彰、吉田裕…といった現代史家がこの映画を「証拠」に使ってますか?
第二に、すでに最初のエントリで述べておいたけど、宣伝や報道に使われた映像がヤラセだったり別のフッテージからの流用だったり、「再現映像」だったりしたからといって、直ちに宣伝されたり報道された出来事がマボロシだということにはならない、ってこと。プロパガンダ=100%捏造、ってのはあまりにも素朴な発想ですよ。そんなプロパガンダはかえって逆効果だから。だいたい、『バトル・オブ・チャイナ』の映像で20万とか30万なんて数字がでてくるわけないでしょ? 今になって振り返れば事実認定に甘さが見られるとはいえ、東京裁判において埋葬記録や目撃者、生存者、日本側証人(田中隆吉とか石射猪太郎)の証言があったからこそ「南京で大虐殺はあった」と事実認定されたのであり、そうした事実の少なくとも一部はその後発掘された旧日本軍関係の史料でも裏付けられてるんですよ。
はっきり言って、「日本軍人による「南京陥落時における虐殺」が史実として言い伝えられているのは、「南京虐殺」という映像が残されていたからでした」なんて書いている時点で、伊藤市議が南京事件についてはほとんど知らないか、あるいはある程度知ったうえで嘘をついているかのどちらかである(私としてはもちろん前者であることを望みます)ことは明白なんですよ。
最後に、まあどうでもいいことだけど。
それでは十条さんは活字がお嫌いのようですので、そんな十条さんのために「南京大虐殺はなかった派」が主張する「もうひとつの映像」をご覧いただきましょう。
まあ私もいろいろと悪口は言われてきましたが、「活字がお嫌いのよう」と言われたのははじめてですわ。私を蛇蝎のように嫌っている人間であっても、「活字がお嫌いのよう」という言い方は絶対にしないと思いますけどね。だって、このブログのコンテンツはほとんど「活字」を読んだ結果として生まれているものだから。
南京事件に関する「宣伝」「教育」の面で写真や映像が使われていること、そうした写真や映像にいろいろ問題があること。これについては私は否定したことありませんよ。しかし戦犯裁判とかアカデミックな研究の水準では、そんなものは関係ないんです。写真や映像とは関係のない水準で、南京における大量虐殺や略奪、強姦の存在は証明できるのです。
末筆ながら申し添えておけば、南京における日本軍の戦争犯罪を率直に認めたうえで、由来の怪しい写真や映像を歴史教育に用いることの危険性を訴えたい…という問題提起であれば私は至極もっともだと思いますよ。ただ、「プロパガンダ映画(写真)だから南京事件はマボロシだったのだ」と考えるのは、逆プロパガンダにひっかかってるだけでしょ? ってことです。
*1:その点についてはすでにGedolさんが指摘してくださっている。