鉄血勤皇隊——少年たちはなぜ「招集」されたのか

鉄血勤皇隊についてのこのエントリ林博史先生のお目にとまったらしく、メールにて情報と資料を提供していただきました。お礼申し上げるとともにここで紹介させていただきます。なお、引用文以外の文責、および引用のしかたに関する責任はもちろん私にあります。


問題になっていたのは、防衛招集で招集される下限の17才より若い少年たちが「二等兵」として招集されていたのはいかなる経緯、根拠によることか、ということです。以下は、『季刊 戦争責任研究』の第54号(2006年)に「資料紹介 鉄血勤皇隊編成に関する日本軍と沖縄県の覚書ならびに軍命令」(解説・訳:林博史)として掲載された資料、および解説からの引用です。あれ…? この号、家にあるではないか…。買った時点では「従軍慰安婦」問題について調べていたところだったもので。詳しくは『季刊 戦争責任研究』の当該号と『沖縄戦と民衆』(林博史、大月書店)の第4章をごらんください。ただし、『沖縄戦と民衆』は2001年刊行なので、この資料は反映されていません。なお、「解説・訳」となっているのは発見されたのが日本語原文ではなく、米軍が押収して英訳したものからの再和訳だからです。アメリカ側の資料によらねば日本軍の実態がわからないという事態は、研究者にとってはさぞかしもどかしいでしょう。


まず大前提として、なぜ少年兵たちの存在が問題になるのか。

ところで、当時の日本では一七歳になると兵役に服することになっていた。ただ徴兵検査は満二〇歳でおこなわれ、その後、実際に入隊することになる(一九四四年から一九歳に引き下げ)。防衛召集では一七歳以上が対象となっていた。沖縄戦がほぼ終了した一九四五年六月二三日に制定公布された義勇兵役法によって男子は一五歳以上が義勇兵役に組み込まれた。徴兵による以外に、志願兵もあるが、陸軍の場合は一七歳以上になってからであり、一九三三年から志願による少年兵制度が導入されたが通信兵や戦車兵、飛行兵などとして教育を受けるためのものであって、一般の歩兵として戦場に動員するためのものではない。
(解説、73ページ)

ni0615さんからご教示いただいたサイト「読谷村史」の「鉄血勤皇隊」の項には「多くの実業学校や師範学校の生徒はほとんどが十五歳以上の者たちで、防衛召集の対象年齢ではあった」となっているが、『日本軍事史』(藤原彰社会評論社、上巻350ページ)でも義勇兵役法が出来たのは45年6月とされており、実際に鉄血勤皇隊が編成された時点では17才未満の少年を招集する法的根拠はなかったこと、そして沖縄の人々には法的根拠の欠如が知らされていなかったらしいことがわかる。
『季刊 戦争責任研究』で紹介されているのは

  • 文書1   第一〇軍参謀第二部、「翻訳」第二二八号、一九四五年七月六日付
  • 文書2  第一〇軍参謀第二部、「翻訳」第七六号、一九四五年五月一五日付

に掲載された次の5つの文書。

  1. 第三二軍作戦命令   球作命 甲第一一〇号 一九四五年三月三日
  2. 第六二師団作戦命令  石作命 甲第二五号 一九四五年三月八日
  3. 第三二軍軍司令官・沖縄県知事・沖縄連隊区司令官「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」 日付不明
  4. 鉄血勤皇隊の訓練に関する指示 (作成者不明、第三二軍と推定)日付不明
  5. 鉄血勤皇隊防衛召集要領   (作成者不明、第三二軍と推定)日付不明

なおオリジナルの資料には1.〜5.の番号はなく、また『季刊 戦争責任研究』掲載時にはA〜Eの記号が付されている(1.→A、2.→B…と読み替えていただきたい。)3.の「覚書」は日付不明だが、3月3日の日付のある1.の「命令」で言及されているのでそれ以前に(そして当然のことながら義勇兵役法の成立以前に)作成されたことが推定できる。
これらの文書からは鉄血勤皇隊の訓練などについても情報が得られるのだが、ここでは兵役年齢に満たない少年が招集された経緯に絞って紹介する。まずは1.より。

四 沖縄連隊区司令官は、添付「鉄血勤皇隊の編成ならびに活用に関する覚書」に従い、沖縄県における鉄血勤皇隊の編成にあたって沖縄県知事と協力し、鉄血勤皇隊の防衛召集を準備するものとす。
(75ページ)

連隊区司令官とは徴兵業務の責任者であり、第32軍が(2.ではさらに第62師団が)その責任者に17才未満の少年の招集を命じていることがわかる(3.を参照)。問題の3.「覚え書き」には次のような一節が含まれている。

要領
(…)
三 非常事態が生じた場合、球防衛召集第一三五号「球部隊防衛召集規則」ならびに添付の「鉄血勤皇隊防衛召集要領」に従って、軍命令によって鉄血勤皇隊が防衛召集される。軍の部隊として鉄血勤皇隊戦闘ならびにその他の任務に配属される。


編成
一 学校長が鉄血勤皇隊を指揮する。しかしながら防衛召集命令が発せられた後は、学校配属将校が軍将校名簿に記載されている学校教職員の中から隊長を指名してよい。また軍将校名簿に記載されていない学校長と教職員は軍属とす。すべての該当する教職員と十四歳ならびにそれ以上のすべての学徒(通信訓練を受けている者は除く)は鉄血勤皇隊に編成される。
(…)
(76ページ、強調は引用者)

つまりはこの「覚書」こそが17才未満の少年を防衛招集した「根拠」であり、またその実態が「二等兵」に他ならなかったことを示していることになる。ところで、昭和30年07月15日の衆議院「海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会」では、山下春江委員が次のような発言をしている(強調は引用者、なお7月12日の同委員会でも同趣旨の発言あり)。

○山下(春)委員 過去の戦争におきまして、本来ならば考えられないことでございますけれども、戦争の末期に、人的不足その他の状況から、非常な年少者がいろいろ戦闘行為に国家権力で動員されたという事例がたくさんあるようでございます。特に私どもは、この身分がどうであろうと、非常に大きな疑問を持つと同時に、この疑問が明らかにされましたならば、幾ら年少者であっても兵としての処遇をしていただきたいと思うのであります。
 まず、沖繩の問題から申し上げますと、沖繩には鉄血勤皇隊あるいは通信隊等の学徒が動員された事例がございます。これは、十七才以上もございますが、十七才未満の者が相当多数戦闘行為に参画いたしまして、死亡した者が五百六十七名と私どもは聞き及んでおります。それがどういう理由で動員されたかと申しますと、陸軍特別志願兵令が昭和十三年二月二十二日勅令九十五号で出、それが後に昭和十九年に改正されまして勅令五百九十四号になっておりますが、その中の第二条に「年齢十七年未満ノ帝国臣民タル男子ニシテ兵役ニ服スルコトヲ志願スルモノハ陸軍大臣ノ定ムル所ニ依リ詮衡ノ上之ヲ兵籍ニ編入シ年齢十七年ニ満ツル迄第二国民兵役ニ服セシムルコトヲ得」となっておりまして、その附則に「前項ノ規定ニ依リ第二国民兵役ニ服セシメラレタル者ノ兵役ニ関シテハ兵役法ノ定ムル所ニ依リ第二国民兵役ニ服スル者ノ中徴兵終決処分ヲ経ザル者ノ兵役ニ同ジ」としてございます。こういうところから考えまして、私はこれは明らかに兵として取り扱うべきものと考えますし、なお同じく昭和十三年の三月三十日の陸軍特別志願兵令施行規則の第十一条の二に「令第二条ノ規定二依り第二国民兵役ニ編入スル者ハ年齢十四年以上ニシテ現住地所管ノ聯隊区司令官(陸軍兵事部長ヲ含ム以下同シ)二於テ適当ト認ムルモノニ限ル」としてございます。こういうところから、との鉄血勤皇隊というのは、現地の司令部で適当と認めて戦闘に参画せしめたであろうと考えられます。
(…)

これに対する政府答弁は次の通り。

○田邊政府委員 (…)
(…)
 次に、お話の通り、満十七才未満で満十四才以上の者を召集または徴集するためには、陸軍特別志願兵令の規定に従って、志願によって第二国民兵役に含むものとして一般兵籍に編入して、その上で召集または徴集するということは可能であり、またそういう規定が存しておったわけでありますが、現実にそういうふうにやっておったかどうかということは調査を要する点でございますので、これも関係方面において目下調査を進めておるような次第でございます。
 以上申し上げましたように、これらの方々が軍人という身分を持っておったかどうかということは、事実でございますので、あくまでも、この事実について、所要の手続をとってやったかどうかということを調べる必要があると思うのでございます。お話にありましたように、沖繩の特殊性ということも十分考えねばなりませんので、先ほど申し上げましたように、特に慎重な取扱いをいたしておるわけでございまして、目下研究中でございます。このために現地にも関係係官を派遣いたしまして調査を進めさせておりますので、できるだけ早く資料を固めまして決定をするように取り運びたいと考えておる次第でございます。

この結果がどうなったか、まだ国会議事録では調べ切れていないのだが、林教授は次のように解説している。

事実、戦後になって厚生省は、一七歳未満の者の扱いについて、「旧兵役法から考えてもこれを軍人扱いすることは相当の難点」があり、少年兵、特別志願兵制度を「適用するためには事務処理上の難点」があるとして結論をなかなか下せず、ようやく政治的配慮から「事実に基いて、軍人として処理することに決定した」という経緯があった(陸上自衛隊幹部学校『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』一九六〇年、三二―三四ページ)。
(解説、73ページ)

つまりは「陸軍特別志願兵令の規定に従って」正式に17才未満の少年を一般兵籍に編入したうえで防衛招集したのではない、と国は判断したわけであるが、この「覚書」ほかの文書はこの判断を裏付けるものと思われる。というのも、仮に陸軍特別志願兵令の規定にのっとったのだとすると、志願さえ「強制」することができれば沖縄県との「覚書」に依拠しなくても防衛招集できたはずだからである。以下は素人のまったくの推測だが、手続きの労を省くとともに、学校ぐるみでの「招集」を実現するためには陸軍特別志願兵令の規定にしたがって「志願」を待つのでは都合が悪かった、ということではないだろうか。
仮に17才未満の少年の招集に法的根拠があったなら、戦後厚生省が軍籍を認めなかったのは不当であり、厚生省の判断が正しかったのだとすると軍は法的根拠なしに少年たちを「招集」したことになる、という意味でいずれにしても国の責任は明確であろう。