「すこししらべて」というのは謙遜でも予防線でもなく文字通りなので読者もそう理解しておいた方がよい件について

「自決しろ」「自決するな」という戦争中の発言について

 自決という言葉でいろいろ見てみたんだけど、戦前は「民族自決」的なものしかうまく見当たらない。

グーグル先生に聞いたくらいじゃダメだよ、ってのはすでに指摘されていたと思うのだが。
捕虜になって生還した軍人が「自決」を強いられた事例としてもっとも有名なものの一つ、その後の日本軍の捕虜観に大きな影響を与えたと思われるのが第一次上海事変で中国軍の捕虜となった空閑昇少佐(第9師団歩兵第7聯隊第2大隊の大隊長)のケース。最前線で重傷を負って人事不肖となったところを捕らえられ、停戦後に送還されたが、3月28日にピストルで自決。上海派遣軍司令部の作成した発表原稿「空閑少佐行動の真相」に曰く。

(…)親しく林聯隊の墓前に詣て多数の部下を失ひたる罪を謝し旧戦場に前記戦歿旧部下勇士の霊を弔ひ其冥福を祈り嘗て自ら奮闘力闘せる想出深き地点に於て従容として自決せり

アジア歴史史料センター、レファランスコードA03023765100。旧漢字を改めた。
ま、要するに見つかると都合の悪いものは本気で探す気がないんじゃないですか。私は思いついてから1分ほどで見つけましたが。ブログのタイトルを「すこししらべたふりをして…」とすれば無問題なんですがね。


追記:「ni0615の日記「土俵をまちがえた方々」」のエントリ、「春はあけぼの」によれば、すこし(だけ)しらべるひとに対して、すでに削除されたコメントにおいて二・二六事件に関わった青年将校の「自決」が当時どう表現されたかを調べるよう示唆するコメントがあったようなので、二・二六事件について詳しい知識を持たずとも「二・二六 自決」でググると直ちに自決した関係者として名前が判明する野中四郎大尉に関する文書をやはり「アジア歴史史料センター」で探してみる。期間を36年2月26日からとりあえず同年末までに設定して「野中」で検索すると上から5番目に「事件に関する状況の件(其3)」なるいかにもそれらしい文書名のものがある。

陸普第九八三号
事件ニ関スル情況ノ件(其三)
昭和11年3月1日 陸軍次官 古莊幹郎
陸軍技術本部長 岸本綾夫殿
一、叛乱部隊ノ元将校中野中四郎ハ自决シ爾餘ノ大部並叛乱ニ参加シアリタル村中孝次、磯部淺一及濫川着助ハ衛戍刑務所ニ收容セラレタリ
(…)

レファレンスコードはC01005022100。ググるところから含めて3分ほどで見つかりましたよ。
ちなみに山崎行太郎氏が引用している太田良博氏の文章は「集団自決」という表現が「私が考えてつけたもの」であったとしているのであって、「自決」という言葉自体が戦後の造語だとしているわけではない。「自決」という表現については「〈自分で勝手に死んだんだ〉という印象をあたえる」点で不適切だった、と反省しているにすぎない。ただし、当時の島民が「玉砕」という表現をもっぱら用いていたという太田氏の主張が正しいなら(というのが山崎氏の推理の前提でもある)、このエントリにおける山崎氏の論旨には大きく影響するわけではない*1


再追記:さらに言えば、太田良博氏の一文は「集団自決」という四文字熟語それ自体が太田氏の「造語」であるということを必ずしも意味しない。ポイントは当時の沖縄の人々が自分たちの経験(目撃経験を含む)について語る際に「(集団)自決」という表現を用いていなかったということであり、戦前においてもまったく異なる文脈において「集団自決」という語句の用例があったとして、それは太田氏の論旨にまったく影響しない。

*1:個人的には、過去についての記憶はそれがたしかに事実についての記憶であっても再構成されて想起されるものであるから、用語法のみから(ただし山崎氏の論拠は用語法のみではないが)「宮平秀幸証言の、「自決」という言葉が出てくるところは怪しいと考えなければならないだろう」と断ずることはできない、と考える。同様に、「自決しろと言われた」とする証言を、その用語法のみから否定することもできない。リアルタイムでは「玉砕」などと表現されていたことを、後になって「自決」という表現を用いて証言すること自体は、心理学的にはごく普通に起こりうることである。