そもそも教科書の記述はどう書き換えられたのか


承前。

個人的には、直接の介入と間接的な影響力の行使とか、氏が参照している歴史研究者の抗議内容のように直接的な命令や暴力による強制と実行を容易にしたりそのような行動を選好するように誘導することを区別しない思考というのは非常に法的ではないなあと思うわけであるが、もちろん法的だからえらいとか正しいとか言いたいわけではない。

強調は引用者。かの「かなり心の狭い学究」氏はそもそもどのような記述にどのような根拠でどのような検定意見がついたのかをご存知なのかどうかという問題。結果次第では「狭い」のは「心」だけではなかろうということになると思われる問題について。

沖縄タイムス 連載「『集団自決』」検定(2)
軍隊(4月28日朝刊総合1面)
「軍の姿」都合良く変更
教科書準拠では実相伝えられず


 東京書籍の「日本史A」の検定申請本は、沖縄戦の犠牲者を十五万人余と説明、続けて「そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」と記述していた。


 しかし、文部科学省の「誤解するおそれのある表現」という意見を受け、「そのなかには、『集団自決』においこまれたり、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民もあった」と修正した。


 執筆者の都立高校教師の坂本昇さん(50)らに対し、教科書調査官は「これまでは意見を押し付けなかった個所だが、学説状況の進展にしたがって、今回は正確な叙述をお願いしたい」と伝えた。


 坂本さんは「日本軍がいない場所では、『集団自決』は起きていない」と食い下がった。調査官は、渡嘉敷島で日本軍の隊長命令がなかったと記述する研究例を示し、「日本軍の命令で『集団自決』といえない状況もある。ただ、日本軍が全く無関係だったということではないと認識している」と説明。


 申請本には渡嘉敷島出身の金城重明さんの証言があり、坂本さんは「このコラム資料はどうか」と問いただした。調査官は、本文のみに手を入れることと、「証言資料と本文の相乗効果があるんだから、両方を読み合わせれば分かる」と説明した。


 しかし、本文も証言を抜粋したコラムも、住民を「集団自決」に追い込んだのは誰なのか触れていない。検定で日本軍の関与が消えたことに変わりはない。

そもそも従来の教科書にも軍の「命令」という記述は無く、ましてどこそこの守備隊長が「自決せよ」と命じた、などといった記述はない。「かなり心の狭い学究」が心配するまでもなく、「教科書に書けるレベルだねえと判定したりするため」の努力を文科省は熱心にやってきたからである。さて、もともとあった「集団で『自決』を強いられたものもあった」という記述は、「集団自決」が(1)「直接的な命令や暴力による強制」によるものなのか、(2)「実行を容易にしたりそのような行動を選好するように誘導すること」によるものなのかを「区別しない」ものになっていた。つまり(a)すべての「集団自決」は(1)の類型である、(b)「集団自決」には(1)の類型と(2)の類型が混じっている、(c)すべての「集団自決」は(2)の類型(あるいは自発的なもの)であり(1)は存在しない、というどの立場をとったとしても「教科書に書けるレベル」と判断される記述である。ただし、(a)の立場は現実には存在しておらず、また(b)の立場からするとこの記述ではまだ弱すぎる、という批判の余地があるわけだが。さて(i)「日本軍がスパイ容疑で虐殺」と「集団自決」の順序を入れ替えることにより「集団自決」と「日本軍」の関係をあいまいにし、さらに(ii)「強いられた」を「追い込まれた」に変更した新しい記述は、文科省によれば「沖縄戦の実態について誤解するおそれ」がより少ない表現、ということになる。その他の教科書の例では次のような書き換えが報告されている。

沖縄タイムス 連載「『集団自決』」検定(1)
通説(4月27日朝刊総合1面)
証言の積み重ね突然否定
住民が自発的に死んだような修正は不当


 実教出版「高校日本史B」では、原文の「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいをさせ」が、「日本軍のくばった手榴弾で集団自害と殺しあいが起こった」と変えられた。日本軍は手榴弾を配っただけで、住民があたかも自発的に「集団自決」を行ったように読み取れる。これが文科省の求めた沖縄戦を誤解させない表現だった。


 執筆者の石山久男さん(71)=歴史教育者協議会委員長=は、文科省の教科書調査官から「『集団自決』をせざるを得ない環境になったのは事実だろうが、オフィシャルな命令が出てそうなったとはいえない。最近はそういう見方になっている」と指摘された。

「オフィシャルな命令」の確たる証拠がないから…というのはどこぞでよく聞く科白であるが、いずれにしても新しい(文科省が容認した)記述は(a)〜(c)のうち決定的に(c)にコミットしたものであることは明白である。しかし「学説状況の進展」により、個別の事例に関して明示的な「命令」があったかどうかが問題視されるようになったということならともかく、従来「自決命令があった」とされてきた事例のすべてについて説得力ある反論*1があったというはなしは聞いたことがないし、まして戦陣訓やら「一億玉砕」のスローガンやら米軍の捕虜の扱いに関するデマやらそれ以前の玉砕事例(特にサイパン)に関する報道(に対する軍の指導・検閲)やら、これら一切ひっくるめて軍の関与はなかったという主張は、少なくとも歴史学者を名乗る人物からは聞いたことがない。つまり、「学説状況の進展」によっても、例えば「そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や、集団で『自決』を強いられたものもあった」という記述*2を撤回する必要性はみあたらないのである。もともと「集団自決を書け」と言い出したのは旧文部省であることを考えればなおさらだろう。
要約すると、「自決」について「実行を容易にしたりそのような行動を選好するように誘導する」という意味での軍の関与を否定する論者は事実上おらず(というか教科書調査官も否定していない)、また「直接的な命令や暴力による強制」という意味での軍の関与についてもべつだん「そんな事例はただの一つもなかった」が通説になりつつある、なんてことはない情況において、前者の弱い意味での関与すら否定すると解しうる記述をせよと迫ったのが今回問題になっている検定なのである。後者は否定するものの前者は明確に認める記述、ではないのである。とすれば、この検定の不当性を論じるにあたって「直接的な命令や暴力による強制と実行を容易にしたりそのような行動を選好するように誘導することを区別」するというのが二次的、三次的な論点になるというのは当然であり、その区別をしないのは「非常に法的ではないなあ」と「心の狭い学究」氏がお思いになるなら法学の徒ではない私としてはとりあえず「ああそうですか」と承る一方で、しかし現在の文脈においてはその「区別」は歴史学にとっても政治的にもたいして意味のないことなので、研究科の紀要にでも書かれてはどうかと思うわけである。だって、「私沖縄にも沖縄人にもコミットメントない」んでしょ? 私とは「不支持政党」が異なるという共通の認識を前提にすれば、民主党の「ためを思って」のご発言でもなさそうですしねぇ。

*1:いうまでもなく、異論が存在するものはすべて教科書に載せることはまかりならん、なんてことになればどの教科の教科書もかなり薄っぺらなものにならざるを得ないのであって、というのも進化論にすら「いや生物は知的な存在がデザインしたんだ」という異論が存在するからであり、ある記述を教科書から削除するにも、ある記述を書き加える場合と同じく、それ相応の根拠が無くてはならない…なんてことは「心の狭い学究」氏にもお認めいただけるだろう。

*2:実のところ、これだって「自決」を強いた主体はかなりあいまいになっている記述である。