最強伝説おおや

on 「おおやにき on performativity


「全体的な感想としてはElleさんと同じく反論・批判になっているのかどうかという点で首をかしげざるを得ない、という感じ」という点については、“ええそうでしょう、自分に対する「反論・批判」というのはきわめて限られた方角からしかやってこない、という前提をご自分とその支持者の間ではつくっておられますからなぁ”という感じ、なのだがこれについては後述。


まずは民主党の決議案をめぐる事実関係について。私が10月4日の報道を根拠として提示したのに対し、10月2日と9月30日の報道でもって対抗…というあたりでまあ結論は見えてるわけで。少なくとも「執筆時点で各党の最新の主張を確認するのをさぼりました」ってことくらいは素直に認めたらどうだろうね。


そして、私が問題にしているのはなによりも「安倍晋三の対NHK圧力疑惑の際のふるまいと今回のふるまいとの整合性」である、というところは見事にスルー。氏としては、私がベタに「民主党は政治的圧力なんてかけるつもりはないもんっ!」と主張していることにしたいらしい*1。「にもかかわらず字面として「撤回」が入っていないから民主党は撤回を要求していない、というのはパフォーマティブモードがOFFになっているよねえ」というのはかなり滑稽で、“字面として「公正に」とあるだけだから「圧力」じゃない”とのたもうたのは誰だよ、と。この部分での私の議論は2005年1月19日のおおや氏と2007年10月5日のおおや氏とに対決していただこうという趣旨だったのだが、ご理解いただけなかったようで残念である(棒読み)。
なお2005年1月19日のおおや氏は、こうも述べている。

とはいえ、「文字通り」には一般的普遍的な原則を確認するだけの発言であっても、一定の文脈に置かれた場合には圧力を感じさせる介入になり得るというのはその通り。「かわいい娘さんですよね」という台詞を無害な隣人が言った場合と、立ち退きを迫っている地上げ屋が言った場合とでは意味が違うだろう、というわけ。しかしこの場合、客観的には無害な発言だというのが前提になるわけだから、圧力になるかどうかは言われた当人の主観的印象が決め手だということになる。そして言われた当人である「NHK幹部」は「圧力は感じていない」と会見でこの点を真っ向否定。そうなるとやはり介入性を論じる余地はないことになる。

これは2007年10月のおおや氏と対比してみる時、なかなか含蓄に富んだ言葉である。「かわいい娘さんですよね」というフレーズを「無害な隣人が言った場合と、立ち退きを迫っている地上げ屋が言った場合」との違いというのは決して「当人の主観的印象」の問題ではなく、民事ないし刑事の法廷において立証することも(常に、ではないだろうが)可能な類いのことがらである。「公正に」という「「文字通り」には一般的普遍的な原則を確認するだけの発言」であっても、万年野党の議員が言った場合と、NHKの予算編成に多大な影響力を持つ与党の幹部や有力議員が言った場合とでは全然違うだろ? というのがまさにこの当時問題にされていたことなのであるが。そして与党からNHKに対して圧力がかかったのではないかという疑惑を考える際には、「言われた当人である「NHK幹部」」が果たして自由に自分の「主観的印象」を語りうるものか、ということも当然問題になるはずである。「NHK幹部」が公の場で自由に(つまり圧力を感じずに)語れるようなら番組内容への圧力も懸念するにはあたらないだろうし、番組内容に圧力がかかるようなら「NHK幹部」の記者会見にも当然圧力はかかるだろうから。この場合においてNHK幹部が圧力を否定したから圧力はなかったんだと考えることは、相当に素朴な態度と言わざるを得ない*2。「言説のパフォーマティブな効果を気にするのは政治屋の仕事である」とお考えになるような「かなり心の狭い学究」ならばそういうこともあるのかなぁ…と思う一方、旧日本軍によって自決するよう命令・指導・示唆を受けた(ないし受けるのを目撃した)という証言に依拠した主張については「「思い違い」の可能性などを最初から無視している点で政治的言説に他ならないんですよね」などと「「言説のパフォーマティブな効果を気に」しておられるのである。「NHK幹部」の記者会見については「与党から因果を含められた」可能性なんてこれっぽっちも考えないようだが。だって「言説のパフォーマティブな効果を気にするのは政治屋の仕事」だからねぇ(笑)。これには当惑せざるを得ない(嘘)。
念のために補足しておくが、NHKへの圧力問題の場合は松尾放送総局長ひとりの証言が焦点になっているのに対し、沖縄での「集団自決」については複数の、独立の証言があるわけである。それに加えて、「集団自決のすべての事例が軍の明示的な命令によるものだ」と主張している人間はいないし、今回問題になっている教科書の(検定前の)記述についていえば軍の「命令」という文言すらないのである。この弱い主張について「思い違い」の可能性云々と複数の独立した証言を斬って捨てておきながら、「首相になってからも“狭義の強制はなかった”云々と言い出して河野談話に不満たらたらなところをアピールしてみせた安倍ちゃんは、従軍慰安婦問題に関わる番組に関してNHKに圧力なんてかけてない」というかなり強い主張(なんせ「介入性を論じる余地はない」そうですから!)をする際には、まるでNHK幹部が自民党からのプレッシャーを感じずに自由に証言できるかのように想定する…というのは「心の狭い学究」らしくないふるまいであると思うがいかがか? 似たような批判で片付くものが他にもいくつかあるのだが、あと一つだけあげておく。

パフォーマティブなレベルを云々するなら、「集団自決が、日本軍による強制・誘導・関与等なしに、起こりえなかったことは紛れもない事実」と明記したうえで「検定結果の中立公正性に疑義が生じている」と主張した決議案(「民主党「沖縄集団自決」教科書検定見直しを要求 参院決議提出へ」イザ!)が可決されたとして「再検討したけど問題ありませんでした」と言えるのか、決議案に「「検定意見の撤回と集団自決の記述回復」の文言は入れなかった」にも関わらず「国会が歴史の認定に踏み込むこと」になっていると当の民主党(参院)が考えていることを見ると(「沖縄教科書検定決議、採択困難に」asahi.com)、まあそうではないよねえ。
(原文のリンクは省略)

で、これがまさに安倍・中川の対NHK圧力疑惑について指摘されていたこととそっくり同型の問題だ、ってことはお分かりなんでしょうな? 「公正に報道しろ」と言われたNHKが「再検討したけど問題ありませんでした」と言えるのかどうか、が問題にされてたんですが。もっとも、「個人的には、直接の介入と間接的な影響力の行使(中略)を区別しない思考というのは非常に法的ではないなあ」とお考えの「かなり心の狭い学究」であるところのおおや氏は、「安倍・中川が間接的な影響力を行使したとして、それが何か?」とおっしゃりたいのかもしれない。2005年1月の時点でもそういう立場で一貫させておられたなら私としても「ふむ、心の狭い学究とはそういうものか」と納得するにやぶさかではないのだが、なにせ「介入性を論じる余地はない」(強調引用者)とおっしゃったわけだからなぁ…。
 なお、朝日が取材テープを表立って公表できない事情があったためにうやむやになった感があるこの件だが、魚住昭氏によるこのようなフォロー取材もあることを付記しておく。


順番は前後するけれども、今度はこの部分について。

しかしその、私は氏のバックグラウンドについてほとんど知るところがないのでこれは当該エントリからの推測であるにとどまるが、その政治的選好ということについて言うならば私と氏のあいだでは支持政党(というよりは、これは推測に推測を重ねることになるかもしれないが不支持政党)がまったく異なるのではないだろうか。仮にそうだとすれば、私の言説が氏(の支持する政治的セクション)にとってパフォーマティブに不都合だとすると私(の支持するセクション)には有利だということであって、じゃあパフォーマティブにもそれでいいじゃねえかということにはならないか。つうか対立している相手に「そんなことを言われるとこちらが困るんです」てえのは普通「泣き言」とか言わんか?

まず第一に「不支持政党」が「まったく異なるのではないだろうか」という推定については私も同感なので、以後これを前提していただいてかまわない。さて、私が問題にしているのは、“民主党が嫌いだという人が民主党の悪口を言うこと”ではない。「言説のパフォーマティブな効果を気にするのは政治屋の仕事」に類する認識を常々示している「心の狭い学究」が、「言説のパフォーマティブな効果」を気にしないと主張することによりその言説の政治的効果を最大化しようとしていることである。だから、ここは「じゃあパフォーマティブにもそれでいいじゃねえか」などと開き直らずに、「心の狭い学究」らしく「そんなことは政治屋の仕事」だと開き直っていただかなければこちらとしてもやりがいがない、というものである。ま、わたしのやりがいなどそれこそ「俺の知ったことか」とおっしゃるかもしれないが、「心の狭い学究」が「法的」思考について書くことが首尾一貫して自民党に有利な「パフォーマティブな効果」を発揮している、というか自民党に有利な効果が期待できる場合に「法的」思考について書くことを問題にしようとしている時、「じゃあパフォーマティブにもそれでいいじゃねえか」と開き直られてしまうとこちらとしても「心の狭い学究」と「御用学者」の異同について考察せざるを得なくなるわけである。それから、私の主張を「泣き言」と矮小化してそれで心の平安が得られるなら、その程度のことでいちいちクレームをつけるつもりはないのだが、少なくとも短期的にはおおや氏の一連のエントリで「こちらが困るんです」などという事態は起こりそうにないのである(中長期的には、「心の狭い学究」の主張がどの程度政治的効果を発揮するかによるのだが、「政治屋」でないおおや氏はそんなことは気にしないだろう)。むしろおおや氏のふるまいの方が「しめしめ、塗りつぶしてやったぜ」と思っていた「記憶」を「塗りつぶす」ことが思いのほか困難そうなので「そんなことされるとこちらが困るんです、と泣きごとを言っている」ように見えなくはないかどうか、については読者の判断に委ねたい。


ここで最初の問題にもどるわけだが、私のエントリが「反論・批判になっているのかどうかという点で首をかしげざるを得ない」というスタンスは、「わたくし、言説のパフォーマティブな効果には興味のない、心の狭い学究でございます」という自己規定によって、ご自分で設定した土俵以外での勝負を一切避ける*3ことによって可能になるのだから、「言説のパフォーマティブな効果には興味のない、心の狭い学究」というあり方の是非そのものとは別に、その自己規定にどこまで誠実なのか、ということが当然問題となろう。
この観点から興味深いのが次の部分。

話を元に戻して、まあその点を不問に付して前提は真だというところから出発するとしても、だからいいんだってえのはパレスティナ問題に関するイスラエル一部勢力の主張を彷彿とさせるなあという気がする。もちろんパレスティナと違って(第一の)加害者と(第二の)被害者が同一である点には留意する必要があるだろうが、しかしレヴィナスとかそういう議論でイスラエル軍による虐殺行為を正当化してたよな、という話は確か前に書いた。復讐であっても直接的な自力救済は正当化されないのであり、加害者・被害者を問わず権利実現のためには普遍的な法に従わなくてはならないというのが近代法の理念であると思うわけだが、もちろんそれを感覚的に共有しない人というのがいるであろうなあとは思うところである。

さすが、言い抜けに困ると「在日」「反日」認定を連発する凡百の南京事件否定論者などとは違って、どういう例をひきあいに出せば相手が嫌がりそうかをよく考えておられる。でもそれって、自分の発言の「パフォーマティヴな効果」をしっかり計算してるよなぁ。果たして私が「沖縄の人々は普遍的な法に従わなくてはならない、という感覚を共有しない人」であるかどうかは、上でも言及したこのエントリをお読みいただいたうえでご判断いただきたい、と読者の方にはお願いしておく。ただし、私は「○○は普遍的な法に従わなくてはならない」という主張が誰によって、どのような文脈においてなされ(そしてどのような文脈においてはなされず)、そのことによってどのような政治的効果を発揮するか…には強い関心をもつ者である、とは言っておく。別に私は自分を「政治屋」と自己規定しているわけではないけれども。


次にあまりたいした論点ではないけど、いちおう触れておく。

民主党が「全会一致での成立」を目指していた云々についてはまあ決議を出す側としては「自民党の反対少数で成立することを目指します」とは言わんわな、という以上でも以下でもないと思うのだが、見たいものだけが見える人なのか都合のいいようにパフォーマティブモードスイッチをON/OFFできる人なのか、まあそこがパフォーマティブな言説ですよと言われればそういうのもありかもねえ。

「決議を出す側」が「強行採決を目指します」とか「反対少数で成立することを目指します」とはいわない、というのはその通りだが、しかし「全会一致での成立を目指します、とは言わない」こともあるとか、現に与党が強行採決を連発したことが最近あったようなとか、そういうことを考えると「見たいものだけが見える人」というのは鏡を見ながら言うべきことではないのか、と。


残っている論点で主だったものはおおや氏による高橋哲哉批判にまつわるものだが、長くなったので別の機会に改めて。とりあえずあらすじだけ。

ここで言いたいのはそういう事実の積み重ねの議論ではなくて被害者の特権性にすぐに飛びついているところが結局「弱い議論」を作っていますよというお節介の話である。

いや「沖縄戦について歴史学者がどのような研究を蓄積してきたか」を無視する人間がそれを言ってもそれこそお節介ですよ、という話である。だいたいは。

*1:そんなベタな主張をするはずがないことはこのエントリをお読みいただいた方にはおわかりいただけると思うが、前回のエントリで参照してはいないから、まあ個人的なアリバイ主張として書いておきます。

*2:いかにも、という感じのコワモテのお兄様方を前にした多重債務者が「いえ、娘を褒めてもらったのだと思いました、脅迫などとはちっとも思いませんでした」と語った場合、なるほど「いや脅迫があったに違いない」と決めつけることはできないとしても、だからといって「脅迫性を論じる余地はない」と断じる人間がいたとすると、それは「心の狭い学究」というより「世間知らず」とか「バカ」とか呼ばれるだろうなぁとか、もしそこに立ち会っていてお兄様方に連れ去られる多重債務者に手を振って見送ったのが警察官で、あとからその多重債務者の死体が見つかったりしたら、その警察官は当然批判されるだろうなぁ、といった意味で。

*3:そうやって「反論・批判になっているのかどうかという点で首をかしげざるを得ない」と言っていればそりゃ最強だよな、というのがエントリタイトルの言わんとすることである、もちろん。