On "kissing ass"

とまあ、これだけでは愛想がないので。引き続きこちらについて。

もちろん根本的なのは放送にせよ映画にせよ表現の自由との対立であって、被取材者には取材に応じるかどうかの選択の自由がある以上その期待を過剰に保護すべきでないという考え方のスジは共通であり、私自身は映画についても最高裁判決の論旨でいいのかなあと思うところではあるが、保護可能性の主張を全面的に排斥した点は誤りであったかと思う。でもApeman氏がツッコむのはそこじゃないのね。
(強調は原文)

それがなにか? 彼我の立場の違いを忘れてるんじゃない? こっちが最高裁判決を根拠に『靖国』の李監督を擁護しようとしたってんならはなしは別だけど、『靖国』批判派の当初の勢いはどこへやら、歴史認識問題に民事訴訟でもってとりくむのが大好きな(そして敗訴したうえに薮蛇な事態を引き起こすのが得意な)稲田朋美センセイが刀匠刈谷直治さんの代理人になったというはなしも聞かない昨今、結局あの一連の騒動は「心の狭い学究がねじれ国会云々を心配しなくても、与党議員にはたかだか750万円の使い道で大騒ぎするだけの暇がある」ということを明らかにしただけで終わりそうなんだから、別に李監督擁護の論陣をはる必要もないわけである。ちなみに、稲田朋美センセイは国会議員という立場にともなう影響力に配慮して訴訟という手段に訴えることを控えているのだ・・・などといった解釈が成立する余地がないのは自明なので、くどくど説明したりはしない。
要するに私は当初より「VAWW-NETNHK訴訟の高裁判決をひきあいに出して李監督にイチャモンをつけようとする人々」へ反論すること、特に、あたかも最高裁判決がでたことによって事情が変わったかのように言おうとする人々へ反論することを目的としていたのであり、それ以上でもそれ以下でもない(というとちょっと言いすぎで、映画も観ずによりにもよって稲田朋美らのクレームに乗っかって踊った人々を「ほれみたことか」と嗤ってやろうという意図はあった)。してみれば、右派が考慮に入れていない放送法にこちらから言及する必要はなく(といっても、高裁判決から私が引用した部分には放送法への言及が含まれてはいるのだが)、あちらが設定した土俵にこちらも乗ってうっちゃって差し上げただけのことである。自分とは異なるが合理的な判断というものがあり得ると考えないので思考が一面的で偏狭になったりしてませんかねぇ?

第一に、私の「[NHK事件の原告たちは]『靖国』の件はどう考えるのか」という疑問について「高裁判決のいう「特段の事情」はないでしょ、でFA。」とお書きである(これははてなブックマークでのコメント)。つまり事実認定で切ろうという話なのだがその「事実」はいずれかの当事者の主張ではなくApeman氏の認定した事実ないし氏が真実であると信じたところのものである。もちろん実際にたとえば訴訟になって双方当事者が主張を行ったのちに認定された事実が氏の信じているものと同じか近いものになる可能性は十分あるのだが、しかしそのプロセスを経たわけでもないのに自らの事実に関する信念が「ファイナルアンサー」の根拠として他のあらゆる当事者の信念に優越すべきものだと信じられる根拠はよくわからない。

靖国』の撮影過程においてどのような〈事実〉があったにせよ、結局は一方の当事者たる取材対象者(ないしその代理人)が法廷で通用するようなかたちでそれを立証するのでなければ、そんな〈事実〉は法的にはないのと同じである。私が主張したのは第一に、これまで『靖国』批判派が行なってきた主張では高裁判決の「特段の事情」という要件を満たさないということであり、第二にはこれからも「特段の事情」という要件を満たすような主張は行なえまいという確信である(この確信は主として、映画のなかで刀匠の方から「小泉首相靖国参拝についてどう思うか?」という質問を行なっていることと、騒動が持ちあがって以来稲田朋美以下の勢いが尻すぼみになる一方であることに基づいている)。これが「FA」だとするのが気に食わないというなら高裁判決にいう「特段の事情」に相当するような経緯があったということを説得的に主張すればよいのである。そもそも人がなにかを主張する時には真実性のクレームを伴っているのが当たり前であって、「FA」というのは自身の主張に自信があるということの一つの表現にすぎない。それとも、「高裁判決のいう「特段の事情」はないでしょ、で暫定的な答え」とでも書いておけば満足だったのだろうか? だとすればくだらないとしか言いようがない。さすがに「心の狭い学究」である。
だいたい、問題の裁判と絡めて「[NHK事件の原告たちは]『靖国』の件はどう考えるのか」という疑問が(この問いを提示した者の意図した通りの)意味をもつためには、『靖国』の撮影過程において「特段の事情」という要件を満たすと考える余地のある事情があったとする「事実認定」−−とは言わないまでもそうした事実についての推定が必要であるわけだが、「訴訟になって双方当事者が主張を行ったのちに認定」という「プロセスを経たわけでもないのに」この疑問が意味をもつと考えることができた「根拠はよくわからない」。ご自身の(2008年6月25日の時点での)主張に忠実であろうとするなら、「もし訴訟になって双方当事者が主張を行ったのちに、高裁判決がいうところの「特段の事情」に相当するような事実が認定されたとすると、[NHK事件の原告たちは]『靖国』の件はどう考えるのか」とでも書いておくべきではなかったのか? 自分が一方の当事者の主張を事実上鵜呑みにしてエントリを書いたことを棚上げにして*1こんなこと書くとは、片腹痛いとしか言いようがない。
あと、ここで問題にしているのが私のブクマコメントの方であり、私が6月17日づけのエントリでは次のような表現を用いていることをスルーしているあたりは実にかわいらしいですなw

というわけで、「まあNHK事件で「不当判決」とかいつもの垂れ幕出してる人たちにじゃあ『靖国』の件はどう考えるのかとか聞いてみたいところはある」に対しては「高裁判決が指摘するような、特段の事情が成立してるんですか?」と問い返せばすむわけである。

こう問い返されたら返答のしようがないので、あれこれ考えたあげく「FA」の2文字にケチをつけてみた、ということか。池乃めだかメソッド。

さてここで、B事例において要保護性を肯定する判決が出されたので「A事例についてはどうか」と聞かれたのに対し、Apeman氏は「事実は1なのでA1では保護されない」と答えたと、こういうことになろう。「じゃあ事実が2だったら?」って聞き返すよ、法学者なら絶対。

これ、前提が間違ってますから。私の答えは「A1*2反面、『靖国』にイチャモンをつける人々の主張も誇張されているだろうと考えて(「だいたい、実際に映画を見てみれば、刀匠も映画が靖国問題に触れるものだと認識していたことは明白」)はいるが、それはこのエントリでの私の主張にとって不可欠の前提ではない。「アカデミズムに通用するはずはない」のは「まあNHK事件で「不当判決」とかいつもの垂れ幕出してる人たちにじゃあ『靖国』の件はどう考えるのかとか聞いてみたいところはある」という問いの立てかたの方じゃないの(放送法のことも失念してたわけだしねw)?

第三に、Apeman氏は法律的見解の主張可能性の条件を理解していない。まずもってNHK裁判における高裁判決は確定していないのだから、それに対してもっと保護範囲を左側に広げろとか右側に抑えろとか主張することは自由なのである。

これはもう、バックネット直撃のボールを空振りしておいて「三味線や、三味線」と負け惜しみを言ってるようなもんですな。高裁判決を前提にしたのはこれをひきあいに出しいて『靖国』にイチャモンをつけようと目論んだ人間であって、私ではない。私は相手が前提したことをふまえただけのことである。「それに対してもっと保護範囲を左側に広げろとか右側に抑えろとか主張することは自由」? そりゃ「自由」ですわな。だけど『靖国』批判派は「もっと保護範囲を左側に広げろ」という「法律的見解」を主張してみせようとしたわけじゃないでしょ?

また、高裁判決はBが保護範囲に入ることを認めたものであってBより左側に保護範囲がないと判示したわけではないから、もう少し左に境界があるんじゃないかという主張は高裁の判断にすら反していない。

それがなにか? 「もう少し左に境界があるんじゃないかという主張」は高裁判決を根拠に主張することはできませんわな。私が相手にしてんのは「高裁判決がVAWW-NETの期待権を認めたんだから、刀匠のそれも認められるべきだ」「最高裁判決がでた以上、『靖国』批判者は別の手を考えるべきだ」って主張なんですが。「もう少し左に境界があるんじゃないか」という「法律的見解」を『靖国』批判者がどっかで展開してましたか? あんたが考慮していたのはそういう「法律的見解」でしたか?

特に、『靖国』事例の関係者はおそらく「特段の事情」があると(それが正当かはともかく)思っているわけである。従って、高裁判決を受けてその人たちが「我々も保護される」(事例はA2であってそれは「特段の事情」があるケースである)と主張することはその人々にとっては自然である。

高裁判決の事実認定とロジックを丹念にふまえたうえで「だから刀匠の期待権も保護されるべき」だと論じた人間を、私はただの一人も知りませんが? いるのならご教示ください。争いごとにおいて一方の当事者が自分に都合のよいことを主張することは「自然」だろうが、だからといってその主張が直ちに「法律的見解の主張可能性の条件」を備えているとは限らない。
ということで、

というわけで私による「映画『靖国』を批判している人は別の論拠を考えるように」という主張可能性の否定を「高裁判決を前提としても言っておかねばならない」と批判するApeman氏は、第一に主張可能性の肯定と見解自体の肯定の区別ができていないし、第二に要保護性の序列を前提にした各判示事項が持つ意味が理解できていないと、まあそういうことになろう。

にはもはや反論の必要はなかろう。当事者が高裁判決の事実認定やロジックとの照合すらせずに勝手に「特段の事情」があると思い込んだところでそんなものは一文の価値もないのである。「法律的見解の主張可能性」ってのは、まさか「誰にでも言いたいことを言う権利がある」なんてことじゃないよね? 「法律的見解の主張可能性」云々が意味をもつのは、一方の当事者の主張をすべて信じたとすればまさに高裁判決の言う「特段の事情」が成立していることになる、とか、「特段の事情」は成立していないけど「もっと保護範囲を左側に広げろ」、とかいった議論がなされていればこそである。そんな議論が展開されていたわけでもないのに、最高裁判決がでたからといって「主張可能性の否定」をしてみせても、現実に存在する『靖国』へのクレーマーにはなんの意味もない。

Apeman氏は本当にメタとベタの議論が区別できないのだなあと、区別する必要はない・してはならないと力説していたことも踏まえつつ、思うわけである。

そう、ベタの部分ですべったからといってメタに逃げるようなふるまいが許されるのは90年代までだよね〜。まあメタの部分でもすべってりゃ世話はないが。


ついでなので、その次のエントリ「フォロー特集」についても。

まあつまり、学生に読ませようとして貼っているのではないのだろうなあ、彼らが読ませたいのは彼ら自身なのだろうなあとそういうことであって、つまるところカルトそのものだと思うわけですが、「このへんな生きものはまだ日本にいるのです。たぶん」とまあ、そういう話。

なにを他人事みたいに! 「心の狭い学究」がその「法律的見解の主張可能性」をせっせと探って差し上げているところの稲田朋美センセイや産経新聞が旗振りをしている運動だって、なかなか香ばしいデスゾ。他人を「反日」呼ばわりしながらプラカードに誤字満載のこういう方々とか、本館の掲示板で教えてもらったこれとか、ね。たしか稲田センセイは「ジェンダーフリー」にも目くじらを立てておられたはずだが、南京事件否定本の版元案内ページに「BL系コミック誌編集スタッフ募集」なんて告知があるのをみたらなんとおっしゃるやら。こういうニセ歴史学をまき散らす面々に甘々な「心の狭い学究」が女性民衆法廷について「法律の世界で特定の意味が決められている専門用語を、勝手に別の意味で使っている」「この点に私は生理的と言っても良い嫌悪感を感じている」とか書いても、「ええ、まあそうでしょうねぇ(ニヤニヤ)」としか思えませんわな。そうそう、「心の狭い学究」について「勉強になる。この率直さと親切さは一時期の山形浩生なみ。」とおっしゃってる id:shinichiroinaba 氏は「ちくま・イデオロギー」について「つうか、「お前も同じ穴の狢」と言われそうだとは自覚している」とのことだが、歴史修正主義者の asshole に間接キスしているという自覚はお持ちなのだろうか?

*1:しかも、じゃあその主張を認めたとして高裁判決に言う「特段の事情」が成立しているのかどうかを検討することなく。この注追記。

*2:ドキュメンタリー映画の通常の取材方法に通じているわけでもないので、別に具体的にどこがどうおかしいと指摘できるようなところがあるわけではないが、まあ人間のやることだから瑕を探せば見つからないことはないだろう、特に触れたがらない日本人も少なくないテーマを扱っていれば多少強引な取材方法をとるということは十分あり得るだろう、という一般論として。この注追記。