「沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会」側の主張

先日産経新聞のとある記事の見出しを(ちょっと大人げなく)あげつらいましたが、この「○○の会」の類いの名称というのもけっこう難しいものですな。事情を知っていればわかるものだとはいえ、「沖縄集団自決冤罪訴訟」を虚心に読めば「集団自決」が「冤罪」だという意味になってしまう。「自決命令冤罪訴訟」なら会の立場がもっとハッキリするけど、「命令」という文言を使いたくなかったのかな?


さて、10月31日の高裁判決を受けてすでに11月1日には会の代表南木隆治氏の個人的声明、15日には(おそらく)会としての“逆転勝利をめざす”という声明が、今日17日には原告代理人徳永信一弁護士の判決評が公表されています。敗訴した側が判決に不満を漏らすのは当然のことで奇とするにはあたりませんが、判決批判が判決文の事実認定や論理を正確に紹介しているかどうかは批判者の主張に理があるかどうかを素人なりに判断する際の有力な基準になりうると思います。そしてこのような観点から考えた時、南木氏の次のような主張(11月1日付け)は自ら原告側の弱みを晒したものだと言えるでしょう。

もし、最高裁が、今回の大阪高裁が勝手に決めた基準を是とするなら、本人が存命でも、歴史的事象等の公の議論に関することならば、どれほど名誉を毀損されても、その名誉を毀損された本人の人権よりも言論の自由が勝るという事になり、大出版社や、著名人が、相手が公務員であれば、思いこみだけで、どれほどの誹謗中傷を書き立てても、名誉毀損にはならない事になるでしょう。
(強調は引用者)

判決はむろん、そんな理不尽なことは言っていません(なお高裁判決要旨については ni0615さんが書き起こしの労をとられたものを参照させていただきました。お礼申し上げます)。高裁判決の次のような判断は、『沖縄ノート』他の出版当時には両隊長についての記述に真実相当性(「少なくともこれを真実と信ずるについて相当な理由」)があった、ということが前提になっているからです。2ちゃんのコピペを記事にして民事訴訟であっさり敗訴した『WiLL』が南木氏の言葉を真に受けて控訴していたら、訴訟費用を無駄にするだけに終わっていたでしょう。

(4)本件各書籍(「太平洋戦争」はその初版)は、昭和40年代から継続的に出版されてきたものであるところ、その後公刊された資料等により、控訴人梅澤及び赤松大尉の前記のような意味での直接的な自決命令については、その真実性が揺らいだといえるが、本件各記述やその前提とする事実が事実でないことが明白になったとまではいえない。他方、本件各記述によって控訴人らが重大な不利益を受け続けているとは認められない。そして、本件各記述は、歴史的事実に属し日本軍の行動として高度な公共の利害に関する事実に係わり、かつ、もっぱら公益を目的とするものと認められることなどを考えると、出版当時に真実性ないし真実相当性が認められ長く読み継がれている本件各書籍の出版等の継続が、不法行為に当たるとはいえない。

最初から「思い込みだけ」で書かれた「誹謗中傷」であれば(4)のような考察を経るまでもなく不法行為が成立するからです。
ではなぜ高裁判決は、「本件各記述やその前提とする事実が事実でないことが明白になったとまではいえない」ことを根拠*1として「不法行為にあたるとはいえない」という結論を導いたのでしょうか。

 さらに本件のように、高度な公共の利害に関する事実に係り、かつ、もっぱら公益を図る目的で出版された書籍について、発刊当時はその記述に真実性や真実相当性が認められ、長年にわたって出版を継続してきたところ、新しい資料の出現によりその真実性等が揺らいだというような場合にあっては、直ちにそれだけで、当該記述を改めない限りそのままの形で当該書籍の出版を継続することが違法になると解することは相当でない。

 そうでなければ、著者は、過去の著作物についても常に新しい資料の出現に意を払い、記述の真実性について再考し続けなければならないということになるし、名誉侵害を主張する者は新しい資料の出現毎に争いを蒸し返せることにもなる。著者に対する将来にわたるそのような負担は、結局は言論を萎縮させることにつながるおそれがある。

 また、特に公共の利害に深くかかわる事柄については、本来、事実についてその時点の資料に基づくある主張がなされ、それに対して別の資料や論拠に基づき批判がなされ、更にそこで深められた論点について新たな資料が探索されて再批判が繰り返されるなどして、その時代の大方の意見が形成され、さらにその大方の意見自体が時代を超えて再批判されていく過程をたどるものであり、そのような過程を保障することこそが民主主義社会の存続の基盤をなすものといえる。

 特に、公務員に関する事実はその必要性が大きい。そうだとすると、仮に後の資料からみて誤りとみなされる主張も、言論の場において無価値なものであるとはいえず、これに対する寛容さこそが、自由な言論の発展を保障するものといえる。したがって、新しい資料の出現により記述の真実性が揺らいだからといって、直ちにそれだけで、当該記述を含む書籍の出版の継続が違法になると解するのは相当でない。

「特に公共の利害に深くかかわる事柄」「特に、公務員に関する事実はその必要性が大きい」という判決の論理からすれば、原告代理人徳永弁護士の次のような判決批判も判決の趣旨を(原告支援団を鼓舞するのが目的の文書とはいえ)歪めているのではないかと思われます。

これまでの最高裁の基準は世間から殺人を疑われた人に無罪判決が下った場合、その後に彼を殺人者とする著述の公表は許されないが、判決以前から販売されていた書籍であれば、その後も大々的に出版を続けてもかまわないというものです。

そもそも「無罪判決」といっても「被告人を有罪とするには合理的な疑いが残る」すなわち「被告人が犯人でないことが明白になったとまでは言えない」というケースから、真犯人が判明するなどして「被告人が犯人でないことは明白である」ようなケースまであるわけで、後者の場合なら今回の高裁判決の基準でも出版差し止めが認められる余地があるわけです。また刑事裁判についての論評は一般には「公共の利害」に関わる事柄であると言えるでしょうが、「特に、公務員に関する事実はその必要性が大きい」として導かれた基準が、私人の刑事犯罪(容疑)についての記述にも直ちにあてはまるものかどうか。
なお「名誉侵害を主張する者は新しい資料の出現毎に争いを蒸し返せることにもなる」という部分は、判決が宮平秀幸氏の供述(法廷証言はなし)を「明らかに虚言であると断じざるを得ず」と、照屋昇雄氏の供述(「自決命令」説は援護法の適用目当て、とする)についても「話の内容は全く信用できず」と評し、さらに「宮村幸延の「証言」と題する親書の作成経緯を、控訴人梅澤は、本件訴訟において意識的に隠しているものと考えざるをえない」ともいって原告側の主張に厳しい判断を下していることから判断するとなかなか意味深長です。
「本件各記述やその前提とする事実が事実でないことが明白に」なる、というのが差し止めを認める要件の一つであるというのは原告側にとってかなり厳しいハードルである……原告の政治的意図を括弧に入れて判決を読んだ場合にはそう思えるかもしれません。ただ、判決要旨のこの部分は出版差し止め請求に関わる判断です。もし仮に、訴訟の対象となった書籍の記述の真実性ないし真実相当性が揺らいだことをもって(=「事実でないことが明白になった」とまでは言えなくても)出版物の差し止めを認めるとするなら、“嫌疑不十分”とでもいうべき状態にある公務員の犯罪(容疑)、不当な行為(容疑)等について公に論評することが妨げられる可能性があるわけです。最近では大阪府の教委を「クソ」呼ばわりした男がいるように、特に政治的党派性に絡むことで公務員に相当厳しい表現が投げかけられる例はいくらでもあります(なお、私が現在の大阪府知事を「クソ知事」と呼ぶのは「クソと言った知事」の意味ですので、橋下閣下には早まって私を訴えたりしないようお願い申し上げます)。被告の側にあまりに高いハードルを課してしまうと困ったことになるのは、左右を問わないでしょう(なんせ2ちゃんのコピペを鵜呑みにして雑誌原稿を書くような人間が大学教授に就任できる世の中ですからなぁ)。
この点に関し、判決要旨にはない興味深い指摘が判決全文(「大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会」が公表しています)にはあります(「,」を「、」に変えて引用)。

 なお、先に真実性及び真実相当性を見当した際には、名誉侵害との関係で証明の対象を「直接命令」とするのが相当であるとして検討したのであるが、仮に出版後40年近くたった現在の時点において本件各記述の真実性及び真実相当性を問題にするとすれば、戦後60年以上を経て一般の読者の沖縄戦ないしは集団自決についての関心の内容も、前提知識も大きく変化しているのであるから、改めて本件各記述の読まれ方を検討してみる必要がある。すなわち、本件各書籍の各著者の意図は、当初から、ある隊長の直接命令を適示してその個人を告発するところなどにはなく、戦争における人間性の破壊の事実としての日本軍の隊長の命令を記述し(「太平洋戦争」)、沖縄の犠牲の上に立つ本土の日本人の姿を明瞭に表す隊長の沖縄返還問題さなかでの沖縄訪問などを論評すること(「沖縄ノート」)にあることは、その書籍全体の論旨からも明らかである。本件各記述の適示の内容や論評の前提となった事実は、前述の区分でいえば、むしろ評価としての軍命令であり、評価としての軍命令の責任者としての日本軍の部隊長であるともいえるのである。他方、沖縄戦の研究者はもとより一般読者の理解も、現在においては、多くは、集団自決の問題は特定の隊長のその場における直接命令の有無などにあるのではないという認識にたち、本件各記述から集団自決をある特定の個人の責任のように理解しその個人を非難するのはむしろ誤りであると捉えられてきていると思われる(甲B74)。そうだとすると、現時点においては、名誉毀損にかかる真実性や真実相当性の証明の対象は「評価たる軍命令」あるいはその責任者であると解することもできなくはないが、「評価たる軍命令」の有無はまさに評価であるがゆえに、その当否の判断は、本来は歴史学の課題として研究と言論の場においてこそ論じられるべきものである。(…)
(271-273頁)

これは裁判所として「本件各書籍を購読する一般の読者に予想される本件各記述の読まれ方の変化」をどのように扱うべきかの判断を示した部分で、結論としては「本件各記述によって、控訴人らの社会的な評価としての名誉が侵害される具体的な可能性は、一般的に見ても大幅に低下しているものと認められる」とされています。噛み砕いていえば、沖縄戦や「集団自決」についての読者の理解も変わっており、読者が両隊長という特定個人に寄せる関心もなくなっているという状況で『沖縄ノート』などの当該記述を読んだ読者が、「この隊長たちは人でなしだ」といった短絡的な理解をすることはない、ということでしょう。なお「評価としての命令」とはこの判決においては「日本軍が集団自決に深く関わり住民を集団自決に追い込んだものであってそれを総体としての日本軍の命令と評価する見解」における「命令」を指します。「甲B74」は原告側が提出した証拠のうち宮城晴美、目取真俊両氏の対談を指すようです。
個人的には、この問題が(勝ち負けを争う)裁判にさえならなければ、あるいは少なくともこの裁判が教科書検定への政治的介入に利用されることさえなければ、現在の文脈において、高裁判決が示したような読み方をよりはっきりと促すよう『沖縄ノート』の記述を改める余地がないと思うか、大江健三郎には聞いてみたい気がします。しかし裁判になった以上、「利敵行為」ともなりかねないことを訴訟の一方の当事者に求めるのは無理というものでしょう。


もちろん、被告支援団の主張にもさがせばやや首を傾げたくなるところはあります。「大阪高裁判決についての三団体共同声明」より(強調は引用者)。

4.戦隊長梅澤・赤松の玉砕(自決)命令については、「伝達経路が判然としない」という原審を訂正し、「住民への直接命令」と狭く限定したうえで、証拠上からそれを認定するのは無理があるとした。本来ならば、事実上の戒厳令下の「合囲地境」にあった慶良間列島において、命令の伝達経路は明確にされており、隊長命令なしに集団死が起こり得なかったことを判示すべきだったと考える。

「隊長命令なしに集団死が起こり得なかった」というのはかなり強い主張です。「隊長命令があったからこそ集団自決が起こったと思われる」と比べてもさらに強い主張です。他の要因、他の可能性を安易に排除して「○○のはずがない」と論じるのは南京事件否定論などに見られるインチキ論法がよく使うところであり、裁判所が軽々には「隊長命令なしに集団死が起こり得なかった」と結論したりしないのは無理もないところではないでしょうか。
まあしかし敗訴した側に比べれば無理をする必要がないのも当然です。次のような徳永弁護士の主張も、支援団へのアジとしてはともかく第三者に対して説得力をもつものではないでしょう。

周知のように、この裁判の最大の争点は、日本軍の隊長より発せられた「自決命令」の真実性でしたが、小田判決は、かつて通説だとされていた「自決命令」の真実性が揺らぎ、現時点では「真実性の証明はない」ことを明確に認めています。日本軍による自決命令は文字どおり神話であったことが証明されたのでした。

「文字どおり」ってそれどんな文字? 「真実性の証明はない」ことをもって「神話であったことが証明された」なんて言い出したら、この世は神話だらけになっちゃいますね。両隊長が自決命令を出さなかった、という原告側の主張についても真実性の証明はない、と判決されていることを忘れちゃったのでしょうか?

*1:の一つ。もう一点、「本件各記述によって控訴人らが重大な不利益を受け続けている」かどうかも争点となりうるが、ここではこれには触れない。