亀田スタイル


on subjectivity
on objectivity



沖縄戦は事実上日本の領土内で行なわれた唯一*1の地上戦であり、民間人に限定しても当時の沖縄県民の5分の1ほどが死亡したとされているわけである。他のいかなる都道府県も、広島県長崎県でさえ、これほどの比率で非戦闘員の死者を出してはいないだろう。このように、広島、長崎とは違った意味で比類のない経験をしながら、「本土復帰」が遅れたこともあって沖縄の「記憶」は「国民の記憶」に統合されてはこなかった。この点において、沖縄の市民にしてみればそもそも「具体的事実を捨象した「正論」」によって塗りつぶされてしまうような個別の記憶なんて塗りつぶされてしまえばいいのである、と*2語る人物の語る reversibility など「それがなんの役に立つんですか?」という状態にながらくあったこと…をまずは最初に指摘しておく。
「集団自決」をめぐる教科書検定が浮かび上がらせたのはこの「国民の記憶」がはらむ裂け目であるわけだが、一方では「国民の記憶」という発想に強い執着をもつ者こそがこの裂け目を深刻に受けとめねばならないという事情もあるわけで、現政権が当初から妥協的な姿勢を見せている背景にはそのあたりの事情もあるのかもしれない。2006年8月21日、すなわち安倍政権成立のおよそ一ヶ月前に行なわれたシンポジウム「「新政権」になにを期待するか?」において、元文科省政務官安倍政権では官房副長官になった下村博文自虐史観に基づいた歴史教科書を官邸のチェックで改めさせる、とぶちあげた(シンポの他のパネラーはおなじみ山谷えり子稲田朋美という豪華ラインナップ)。沖縄戦において軍が非戦闘員の集団自決に関与した(場合によっては命じた*3)、という主張が下村博文らのいう「自虐史観」に属することについてはいまさら論証する必要もないだろう。今回問題となった検定意見が「官邸」の意を受けたものなのか、教科書調査官が自発的に官邸の意向を汲んだのか、短期間で変わる官邸とは別の底流があったのか…といったことは現時点ではまだはっきりしていないわけだが、仮に「官邸のチェック」がはたらいた結果だとすれば、今回の事態は「結果が気に入らないからといって「中立」となっている機関の決定に文句を付けはじめるとどういう結果になるか、という問題に関する卓抜な一例」ということになるのだろう。結局のところ国会での「検定結果見直し」要望決議抜き文科省は(検定制度のタテマエに関わるメンツは一定程度保ちつつも)実質的には*4検定意見の撤回に近い状況に立ち至り、しかもこれからしばらく教科書調査官の人脈やらふるまいやらに従来以上に厳しい目が注がれるであろうことが予測されるわけで、薮蛇というかなんというか(現政権にとってはとばっちりかもしれない)。


さて、コメント欄に集う人びとも含めて「一体なにをターゲットにしているのかわからない」とご不満のようである。まさか皆が皆そろってそらとぼけているとはさすがに思えないので単刀直入に、過度な単純化を怖れずこのエントリ以降私が言わんとしてきたことをひとことで述べるなら、「お為ごかしは止めたら?」ってことになるだろう。「本来少数者・弱者のためでもあったわけである」とかその類いの、ね。したがって、大屋氏が「第二は「安倍晋三の対NHK圧力疑惑の際のふるまいと今回のふるまいとの整合性」という点について、Apeman氏としてはこの二つの事例に対する私の態度にintegrityがない、と主張されたいようである」とおっしゃるとき、やはり私の意図を半分程はとらえそこなっているかしらばっくれているということになる。というのも、私はむしろ、氏の発言(および発言の不在)が、コンスタティヴなレベルでは見えてこないような見事な首尾一貫性をパフォーマティヴなレベルで貫徹していることをこそ指摘しようとしたからである。後出しを許していただくなら、常に一定の方向にパフォーマティヴな効果を発揮するように発言しているんだから、発言のパフォーマティヴな効果は気にしないなんてしらばっくれなくてもいいじゃない、と表現してもよい。
安倍晋三を支持する議員が歴史教科書の特定の記述に関して「官邸のチェックで改めさせる」と公の場で発言し、その男がのちに官房副長官になったことについて、ざっとサイト内検索した限りでは「おおやにき」内にはいかなる言及もないのであるが、一つにはもちろん門外漢にはなかなか読む機会のない「査読誌」になにか書かれていたとしてもそこまでチェックしてはいないという理由で、二つには「書いたこと」とは違って「書かなかったこと」については単なる徴候以上のものとしては扱えないという理由で、「中立」となっている機関の決定に官邸が口を出すことを、言い換えればとても「正論」とは言えない手法によってマイノリティの記憶を「塗りつぶしてしまえばいいのである」と言わんばかりの手法を、氏がどう評価しているのかもちろん断言はできない。しかし目を閉じれば、ネオンサインのようにはっきりとある可能性が照らし出されているのがみえるのである。
ここでエントリタイトルの理由を語っておくと、氏の対応はまるで、ゴングが鳴るまでは四方八方ディスりまくっていたのにイザゴングが鳴ったらひたすらガード固めて…というスタイルを想起させたからである。ついでに肘で目を狙ったかどうかについては読者の判断に委ねる。否応なく政治的であらざるを得ないトピックについて頼まれもしないのに書いた以上、発言のパフォーマティヴな効果を問題にする人間が出てくるのは当然なのであって、それがいやならそれこそ「査読誌」にだけ書いていた方があなたの精神衛生上よくはないですか? と。


とはいえ、やはりコンスタティヴなレベルでの首尾一貫性を問題にしたくなるところももちろんある。例えば次の一節。

もう一つ、「「言われた当人である「NHK幹部」」が果たして自由に自分の「主観的印象」を語りうるものか」という点については考慮しないのではなくてそこで語れないような人間の権利を法が守る必要はないと考えているだけのことである。
http://www.axis-cafe.net/weblog/t-ohya/archives/000473.html

これにはさすがにあきれた。そもそもここで問題になっていたのは(そして私がここで問題にしていたのも)松尾放送総局長(当時)という個人の権利ではない。はたして女性戦犯法廷をめぐる番組に対して「政治的圧力」があったのかどうか、である。だれも松井総局長(当時)がやりたくもないこと(=番組内容の変更を命じること)をさせられたとして、松井総局長の「利益を先取りして・代弁的に擁護」したりなどしていなかったしいまもしていないのである*5。他方、長井チーフプロデューサーやVAWW-NETジャパンに関しては誰かが勝手に代弁したわけではなく自ら、一方は政治的圧力により番組内容の改変が命じられたと告発し、他方は「NHKの企画内容に合意して取材協力したのに全く別の内容に変えて放送されて信頼(期待)利益を侵害され」、「NHKがそのような番組内容改編の説明義務に違反したために損害を受けた」*6と主張したわけである。そして安倍・中川両名の発言が理由であるかどうかはひとまずおくとすると*7、番組内容の変更によりVAWW-NETの利益が侵害されたということは、少なくとも東京高裁が認めたことである。政治圧力疑惑がひとえに松尾総局長(当時)一人の利害に関わる問題であったのだとすると、当人が公の場で圧力の存在を否定した以上、「介入性を論じる余地はない」とする立場に一定の妥当性があることは認めるにやぶさかではない(ただし、例えばDVの被害者であることが疑われる個人が「いえ、これは勝手に転んでできた傷です」と警察官に語ったからといって一件落着にしてよいか…といった問題は当然残る)。しかし放送総局長は本来なら個別の番組内容にまでコミットする立場にはないわけで、個人的な利害という点ではむしろ当事者性が低いのであり、取材対象(VAWW-NET)や視聴者の利益が損なわれてはいなかったかどうかについての証人として、松尾総局長(当時)は扱われていたのである。


まだいろいろとあるわけだが長くなったのでひとまずここで締める。

*1:もちろんアジア・太平洋戦争において、のはなし。しかし実のところ、日本において近代的な地上戦が行なわれた地域というのは、戊辰戦争西南戦争を「近代戦」に数えるとしても、かなり限られていることになる。なおもちろん硫黄島での戦闘は激烈ではあったが、巻き込まれた非戦闘員がきわめて少なかったという点で沖縄戦とは明確に異なるのでここでは考察の対象からはずしている。

*2:塗りつぶされてもしかたがない、ではなく強調つきで「塗りつぶされてしまえばいいのである」とされていたことに注意。

*3:大陸命とか大陸指とか奉勅命令でなければ軍命令ではない、とでもいうのならなるほど「軍命令」があった可能性は事実上ゼロだが。

*4:ただし検定意見批判派にとってはなにをもって「実質的」な成果と考えるかは当然さまざまである。

*5:まあもちろん、そのような視点から松井総局長(当時)を“声をあげない被害者”として扱うことも不可能ではなかっただろうが、放送総局長というのは政治的圧力−−がもしあったなら−−に抗することを期待されるポストであるがゆえに、そうした「代弁的擁護」はみあたらなかったと記憶している。

*6:これらはのちにVAWW-NETNHKを提訴した際の主張であって、問題が明らかになった当初からこのような表現で「政治的圧力」を告発していたわけではないだろうが、法的に守られるべきVAWW-NETの利益というかたちで表現していれば、おそらくこのようなかたちを当初からとったであろう。

*7:後述する東京高裁判決では「政治的圧力」の存在は認定されなかった。