「反転可能性」について

さて「反転可能性」要請というのは、その反転の可能性を誠実に想像してみるのでなければ正義の原理として機能しない*1。反転が現実にしばしば起きるような場合には、人々はいやでも誠実に他者の視点をシミュレートするだろうが、「官邸のチェック」によって塗りつぶされかねない記憶を持っているかどうか…といったケースになれば、そもそも教科書に載るような出来事を当事者として経験すること自体が希有と言ってよいだろうし、そのなかでも「官邸」が「「中立」となっている機関の決定に文句を付け」てまで書き換えさせようとする動機をもつケースとなればなおさら稀である。「「具体的事実を捨象した「正論」」によって塗りつぶされてしまうおそれのある個別の記憶をもたない者が「そんなものは塗りつぶされてしまえばよい」と主張するとき、「反転の可能性」を誠実に想像しているのかどうかを問題にすることには実質的な意味があるだろう。
例えば光市母子殺害事件弁護団(の弁護方針)を批判する際、「自らの家族が被害者となってもなお、そのような主張ができるのだろうか」と問うことはどうだろう? 念のためにいうと、これは「赤ん坊については泣き止ますために首に紐でちょうちょ結びしようとしただけ」という主張*2ではなく、その主張を「反転可能性」に依拠して批判することの反転可能性を問うているわけである。「自分がもし被告の弁護人で、現弁護団と同じ情報を手にしていた場合、同じような弁護方針を立てるか?」というわけ。弁護団が相手にしているのは第一義的には被害者遺族ではなくまずもって裁判所であり、ついで検察であり、そして現在弁護側は被告人の精神発達に遅れがあることを主張しているわけだから*3、裁判所や検察が依頼する鑑定人だったりするわけである。私は法曹関係者でも精神科医でもないから以下は憶測モードになるけれども、裁判官というのは精神科医の鑑定を「んなわけあるかぁ」てな調子で否認しちゃう人々なのだろうか? 精神科医というのは、自分の専門家としての知見に照らせば「赤ん坊については泣き止ますために首に紐でちょうちょ結びしようとしただけ」という主張が被告人の主観にとっては真摯なものである可能性がある場合でも、「被害者遺族が浮かばれまい」とか「世間が許すまい」といった理由で鑑定書の結論を変えちゃう人々なのだろうか? 私はそうであってほしくないと思うし、弁護団も「そうではない」という前提(というか期待)のもとで弁護方針を決定したのではないのだろうか?
もちろん、弁護側の申請した鑑定(精神鑑定に限らず)と検察側の申請した鑑定とが真っ向食い違うなんてこともままあるはなしで、弁護側の鑑定人は弁護側の主張を補強する鑑定結果を述べたけれどもそれをそのまま裁判所が受けいれるとは限らない。また弁護団と同じだけの情報をもっていない以上、いかに主観的には「誠実」であっても視点を完全に交換してみることはできないはなしではある。しかし「当の安田弁護士からが、自分が被害者の家族だったときに言われて受容できる」とは思えない、という理由で弁護団を批判するのは、「反転可能性のテスト」としてあまりにおざなりではあるまいか。 

*1:例えばネットでしょっちゅうお目にかかる、「オレが殺人を犯したら死刑になってもかまわないから奴らを吊るせ!」という書き込みを想起してみよう。

*2:被害者の遺族にしてみれば「馬鹿にするな」と言いたくなるのは当然でしょう。

*3:そして弁護団によれば、精神発達の遅れは家裁での調査記録にも指摘されているという。