『思想地図 Vol.1』における東浩紀の発言について

先日のエントリのコメント欄にて上田亮さんから情報提供を頂いた件について、前後の文脈もあわせて改めてご紹介させて頂きます。

問題の発言が含まれているのは「特集・日本」の「II ニッポンのイマーゴ・ポリティックス」中の鼎談「日本論とナショナリズム」です。鼎談参加者は東浩紀北田暁大萱野稔人
鼎談の流れとしては、従軍「慰安婦」問題を持ち出したのは北田暁大です(「●戦争責任と主体」という小見出しがつけられている)。これに至るまでの、ナショナリズムについての三者の議論は本書をご参照ください。

北田 少し話題をずらしますが、戦争責任や従軍慰安婦問題にしても、韓国や中国に対する謝罪の話が延々繰り返されてきましたが、結局、「謝れ」と言われるということは、「責任主体になれ」と外から言われていることになる。それでは「本当の主体」になったことにならない、だから主体確立のナショナリズムを唱える人であれば、外的・内的にも能動的な主体性確立を目指すはずです。一方、洗練されている動物たちであれば、外に向けては責任主体としての主体性を立ち上げつつ、内に向けては、「そんなに主体、主体とやかましく言うのはもうやめよう」となるんじゃないでしょうか。(・・・・・・)しかし、現状はそうなっておらず、きわめて中途半端なわけです。中途半端というんじゃないな、何と言えばいいのか・・・・・・。内的な主体性にはほとんど関心がなくって、外に対してだけ「反発」の主体として振る舞おうとする。とてもネガティヴな主体性が浮き上がっている。
(265頁)

ここでの「現状はそうなっておらず」という認識の内実は今ひとつ明らかではないのですが、続く箇所から判断すると「動物たち」について北田氏が想定するのとはまったくちがった振る舞いが見られる、ということだと思われます。さて、これをうけて東・北田間で加藤典洋は「動物的方法論」を気に入らなかったがゆえに「内と外」との「ねじれ」を解消させようとしたこと、が確認されます。そして北田が「東さんは、そのねじれをサバイブしていくための洗練が必要だということですね」とフリます。ここで問題の発言が登場します。

東 誤解を受けそうな例ですが、僕は最近従軍慰安婦問題については、それがあったのかなかったのか、あまりにも情報が錯綜しているので考えるのをやめる、というか「考えるのをやめる」ところからスタートしないと何も始まらないと考えるようになりました。一方に慰安婦はいたと怒っている人がいて、他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる。ぼくに、というか、たいていの人にわかるのは、そういう両者がいるという事実だけであり、あとはそこから出発して、日本という国家に最適なのはどのような選択なのか合理的に粛々と考えるしかない。
 その点から言うと、「慰安婦なんてなかったんだ」と主張し続けることが、かえって国益を損ねることはある。例えばこの間の米国議会の決議のように。
(265-6頁)

さて、すでにコメント欄でも指摘したことですが、「他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる」などという表現は、「あまりにも情報が錯綜している」というのは単なる言い訳でお前新聞すらちゃんと読んでないんじゃないのか? という疑いを抱かせるに十分です。昨年の夏は各メディアとも右派の「慰安婦」問題についての主張をかなりの量報道したわけですが、「慰安婦は存在しない」なんて主張は(少なくとも影響力のあるものとしては)存在しません。これは例の自爆意見広告、"The Facts"を見れば(あるいは当時の安倍首相の言動を想起すれば)一目瞭然でしょう。産経新聞客員編集委員、というより今では田母神「論文」に最優秀賞を与えた審査委員のメンバーとして有名な花岡信昭のまとめによればこの意見広告の主張は次のようなものです(2ちゃんのコピペを鵜呑みにして損害賠償を命じられるような人ではありますが、自分がコミットしている主張についての要約ですから、信頼してよいでしょう)。

1: 強制連行の具体的証拠はいかなる調査からも出ていない。その逆に、本人の意思に反して慰安婦にしてはならないという指示が多数出されている。
2: 当時の韓国紙によれば、悪質な業者が処罰されたという報道もある。
3: インドネシア・スマランで軍の末端組織が暴走し、オランダ人女性を強制的に慰安婦にした事例はあるが、軍の命令で慰安所は閉鎖され、関係者が処罰されている。
4: 元慰安婦の証言は、当初、業者に連れて行かれたとしていたものが、「官憲らしき服装の者」に変わっていくなど、一貫性がない。
5: 当時の公娼制度の下で、慰安婦たちは大切に扱われ、佐官級の収入を得ていた者もいる。戦後、日本に進駐したGHQは日本側に慰安所の設置を要請した。
(http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/y/64/index1.html)

はい、どこにも「慰安婦は存在しない」なんて主張はありませんね?
第二に、「あまりにも情報が錯綜している」ということを仮に前提として共有したとしても、「ぼくに、というか、たいていの人にわかる」のが「そういう両者がいるという事実」だけだ、というのはあまりにも驚くべき主張です。私なら「たいていの人にわかる」事柄として少なくとも次の二つをつけ加えます。まず前出のコメント欄でfelis_azuriさんも指摘されているように「被害当事者が被害事実を訴えてる」という事実があります。当事者の主張の信憑性について「情報が錯綜している」からといって判断を保留するにせよ、“性暴力の被害をうけたと訴えている女性たちがいる”ということそれ自体を否定する人間は見たことがありません。次に、この件について日本政府はすでに一度「内閣官房長談話」というかたちで立場を明らかにしています。この、いわゆる「河野談話」はマスコミで「慰安婦」問題がとりあげられる際には必ずと言ってよいほど言及されていますから、「たいていの人にわかる」こととして認められるべきです。つまり「「考えるのをやめる」ところからスタートしないと何も始まらない」という東の主張は上記二つの事実を無視したところに成立しているわけです。


さて「一方に慰安婦はいたと怒っている人がいて、他方に慰安婦は存在しないと主張している人がいる」という偽造された対立図式を好意的にこう読み替えてみましょう。「一方に慰安所制度は女性への深刻な人権侵害であったと怒っている人がいて、他方に慰安婦は性奴隷ではなかったと主張している人がいる」、と。しかし「たいていの人」という言い方を実証的な裏づけなしに用いる(東がそうしているように)ことが許されるなら、「たいていの人」はこのどちらにも入らないんじゃないでしょうか? 一方に河野談話が約束したこと(「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さない」「政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい」)を誠実に履行することを日本政府に求める、あるいはそれ以上のこと(個人補償を含む)を要求する人がおり、他方に河野談話の撤回を求める人がいる。しかしその間に、河野談話の撤回を求めようとは思わないもののこれ以上日本政府に行動を要求するつもりもない人というのが相当なボリュームでいるはずです。また、私は『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)以降「動物化」をめぐる東の理論構成にどのような変化があったのかよく承知していないのですが、少なくとも『動物化するポストモダン』の段階では「動物化」は「オタク系文化」と結びつけて主張されていたはずです。そうすると、いわゆる戦争責任問題において左右どちらにであれ強いコミットメントを示す傾向にある中高年(ざっくり言って現在50代半ば以上)の振る舞いをどう理解すればよいのか、という問題もあります。これらの点については、東の立論にとってどの程度レリヴァントなものなのか、機会を改めて考えてみたいと思います。


南京事件をめぐる発言にも共通することですが、東は「ポストモダン」的な状況ゆえに戦争責任問題についての見解が「収斂」しない、それゆえ「考えるのをやめる」ところからスタートせねばならない、と言っているわけです。しかしいわゆる戦争責任問題について日本社会が「責任主体」足り得ないことと「ポストモダン」的状況とは本質的な結びつきを持っているのでしょうか? この点を考えるには、「情報が錯綜」していないケースを検討してみる必要があります。2005年に行なわれた読売新聞の世論調査において、58%が「当時の日本の政治、軍事指導者の戦争責任問題に関する議論」が「「あまり」あるいは「全く」されてこなかった」と答えており、「十分に」「ある程度」の30%を大きく上回っています。また「中国との戦争、アメリカとの戦争が「ともに侵略戦争だった」」と「中国との戦争は侵略戦争だったが、米国との戦争は侵略戦争ではなかった」がそれぞれ34%で、何らかの意味で「先の大戦」が侵略戦争であったとする人が7割近くにのぼり、「ともに侵略戦争ではなかった」は10%に過ぎません。全国紙の論調を見ても産経新聞以外は何らかの意味で「先の大戦」が侵略戦争であったとしていると考えてよいでしょう。これは政治的に言えば十分世論が「収束」していると言ってよい事態です。にもかかわらず、「日本がアジアの人々に多大な被害を与えた責任」については「もう感じなくてよい」が45%、「「あと10年〜30年ぐらい」感じ続けなくてはならない」と「「その後もずっと」感じ続けなくてはならない」があわせて47%と、拮抗した数字になっています。そして「侵略戦争だというのは濡れ衣」だと主張する人間が航空自衛隊のトップにまで登り詰めたという事実もあるわけです。これはどう考えても「あまりにも情報が錯綜している」ためではありません。歴史認識の面では十分と言ってよいほど世論は「収束」しています。にもかかわらず行動が問題になる時には「慰安婦」問題と同様にずるずると不作為が続いている(正確に言えば婉曲な謝罪は何度も行なっているにもかかわらずその度に「10%」が巻き返しを図って謝罪の外交的効果を台無しにする、というサイクルを止められない)わけです。端的に言えば、東は「ともに侵略戦争ではなかった」とする10%が政治的にはこの数字以上の影響力を発揮しているという現実を無視しているわけです。


もう一人の萱野稔人は二人の発言を受けて次のように語っています。

萱野 ただ、いまのお話だと、主体にならずに謝っておこうということにもなりますよね。確かに個人のあり方としてはそういうのも可能かもしれない。でも、国家という、暴力を担う存在にとってそういうあり方は可能なのでしょうか。というのも、暴力を担う存在にとって大事なのはメンツだからです。ヤクザ組織なんかでも同じですよね。暴力のうえに成り立っている存在にとって、簡単に謝罪するというのはいさぎよさの証明にはならず、むしろみずからの威信を低下させるものでしかない。もちろん、だからといって僕は日本国家が謝罪しなくてもいいと言っているわけではありませんよ。国家が謝罪するには、やはり主体として謝罪するほかないのではないか、ということが言いたいわけです。
(後略)
(266頁)

これをうけて北田暁大は「日本というのは、情況論的には当然のことですが、被害者としてのアイデンティティを戦後確立できなかった」「「被害者としての主体を立ち上げるべきだった」と考える点で、私はナショナリスト、というかパトリオットなのでしょう」と述べており、加藤典洋に近い発想を示しています。前出の「「責任主体になれ」と外から言われていることになる。それでは「本当の主体」になったことにならない」という発言とあわせ、「主体性」というのはそういうことなのか? という疑問をもちますが、それについてはまた機会を改めて。


なおこの萱野発言に先立って、東は「日本は、一九四五年に強い自己批判を行った国です」とも言っていますが、この認識も大いに疑問です。