「日本的なもの」への矮小化

ちょっと前の記事になるが。

なんというかもう、突っ込みどころだらけの駄文。かつてアメリカ人が「原住民の殺戮者、奴隷の使用者」だったというのは端的な事実であるわけだが、そのことに起因する「屈折」は理解してやらねばならないらしい*1。まあ「理解」するのはいいとしよう。しかしどう「理解」したら拘束ではなく殺害でなければならなかったかを納得できる気がまるでしないんですが。「屈折」をいうなら近現代においてムスリムが感じてきた「屈折」の方はどうするんだ? というのは別としても。
しかしなにより腹立たしいのは次の一節だ。

日本人の死生観や倫理観からすれば、それは自然なことだと思います。私には勿論理解できるし、ある程度は予想していました。ですが、日本に来てみて、ここまでの反発がある、しかも「これで世界の反米感情が加速する」とか、「ノーベル平和賞は返上すべき」という強い違和感一色であるのにはやはりショックを感じています。

いったいどこをみたら「強い違和感一色」と思えるのかも不思議だが、それ以上にこれは「日本人の死生観や倫理観」以前の問題だろうが! 国際法違反の疑念が極めて強い行為を批判するのに「日本人の死生観や倫理観」なんて必要ないし。また「特殊部隊の人間が丸腰の人間を撃つなんて」といった類いの反発にしても、これまた別に日本文化に固有のものではなく、普遍的と言ってよいものだ。安易に「日本的なもの」を持ち出して物事を説明しようとする知的怠惰なのか、それともオバマの選択が普遍的な(あるいは普遍的足らんとする)理念に反していることを隠蔽しようとする稚拙なマヌーバーなのかは知らないが。

*1:できれば「受け入れる」のが望ましいらしい! だったらあんたも一般アメリカ人に安倍晋三あたりの「屈折」を「受け入れ」させてみてはどうか。