花岡事件「和解」問題、その後
関連エントリ
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080205/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090223/p2
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090809/p1
大戦中に花岡鉱山出張所で強制労働を強いられた中国人被害者が鹿島建設を提訴しその後東京高裁での協議により和解が成立した事例につき、被害者の一部が和解を拒否していること、その背景には和解条項が1990年に原告側と鹿島の間で行なわれた「共同発表」から大幅に後退していた*1だけでなく、この重要な後退が被害者らに伝えられていなかったことがある……という問題についてはこれまでも簡単にではありますがとりあげてきました(上記「関連エントリ)参照)。
4月25日に鹿砦社から発行されたムック、『告発の行方 知られざる弱者の叛乱』に収録された「三百代言で塗り固められた「花岡和解」の徹底検証――中国人戦争被害者をウソとごまかしで裏切った弁護士たち」(「花岡」問題取材班)はこの問題をかなり詳しく紹介したうえで、『世界』の09年9月合に掲載された「検証」記事や『世界』編集部の姿勢についても批判的にとりあげています。「三百代言」といった評価については議論の余地はあるでしょうが、ここで厳しく批判されている『世界』の検証記事にしても「共同発表」からの重要な変更が通訳されていなかった(すなわち中国人被害者には伝えられていなかった)ことは認めているわけです。そしてこの変更が「通訳を介したやり取りだから、すべてを伝えきれないのはしかたがない」ではすまされない重要性を持つことも明らかでしょう。たとえ被害者を「裏切」る意図に発したことでないとしても、日本人代理人(や岩波)の側に“自分たちの「成果」に傷をつけたくない”という思いがあってそれが頑な対応を生んでいることは否定しがたいように思います。
*1:「ただし、被控訴人は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了解した」という文言が付け加えられていた。