コピペ戦士、hunter
昨年の11月に「歴史修正主義と「欠如モデル」」というエントリを書いたのですが、そこでの私の主張を裏付けてくれる逸材が立て続けに現れました。一人は現在こちらのコメント欄で奮闘中。元「慰安婦」の証言の揺れをあげつらう一方で、自分自身は「米下院決議でも慰安婦は正規の商行為とされていたはず」(2012/01/18 22:12)と主張しておきながら、その「ソース」として「米国議会調査局」の報告書についての産経の記事(もちろん、こもりんのです)を持ち出し(2012/01/18 23:22)、米下院決議にも議会調査局報告書にも「正規の商行為」などという評価はないことを指摘されると「Report No. 49: Japanese POW Interrogation on Prostitution」を持ち出す(2012/01/20 00:06)……という具合に、たった1日の間に言うことがクルクル変わっております。彼が被害者の証言に要求する高い首尾一貫性の水準に照らすまでもなく、とんでもない嘘つきですね。
もう一人はこのブログのコメント欄で活躍中、得意技はコピペという hunter くんです。正月のまだ松もとれていないうちに、ノビーのエイプリルフール・ネタ記事をコピペ。次いで、私が吉見義明氏に依拠して「1893年に群馬県が公娼制を廃止*1したのを嚆矢として、1930年から41年の間に13県が廃止」と書いたところ、「戦前に公娼制度が廃止された県は群馬県と埼玉・秋田県だけ。それ以外の地域は合法」と言ってきました。
1873年(明治6年)、芸娼妓解放令が出される。遊女の人身売買の規制などを目的とした法令だが、実質的な強制力はない。のちに公娼取締規則は地方長官に権限を移し、群馬県では公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120119/p1#c1326963364)
のちに公娼取締規則は地方長官にその権限がうつり、各地方の特状により取締規則が制定された。たとえば東京では、1882年(明治15年)4月、警察令で娼妓渡世をしようとする者は父母および最近親族(が居ない場合は確かな証人2人)から出願しなければ許可しないとした。さらに群馬県では県議会決議によって、全国で初めて公娼そのものを全面的に禁止する条例が可決された。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/公娼)
1920年代後半から1930年代前半、日本キリスト教婦人矯風会や各県の廃娼運動団体が中心に活動し、十数県の県会における廃娼決議、埼玉・秋田県での廃娼実施となった。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120119/p1#c1326963364)
第五章は、1920年代後半から1930年代前半における矯風会と廓清会の連合運動に着目し、廃娼運動の高揚と転換を考察したものである。矯風会は1926年6月、廓清会との連合組織である廃娼連盟を結成した。その活動は、両団体の明確な役割分担によって推進されたが、矯風会は主に資金の集めに専念した。このように、矯風会は前述した五銭袋運動をはじめ、廃娼運動の資金作りに大きな役割を果たしたのである。
廃娼連盟は、各地で矯風会・廓清会支部を拠点として廃娼運動団体を結成するとともに、対県会活動に重心を置くことになった。その運動を通じて全国的廃娼運動のネットワークが作られ、そこには禁酒会・教会・学校・婦人会・仏教団体など、地域団体が多く参加した。かくして、1926年から34年までの間に、全国41県で廃娼運動団体が組織され、それぞれの地域に根ざした身近な運動から出発して公娼制度撤廃運動へと進めていくことができた。それは、十数県の県会における廃娼決議や、埼玉・秋田県での廃娼実施をもたらした決定的な要因となったのである。
(http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/35621/1/dt-ko-0062ja.html)
もちろん、私としては典拠もない歴史修正主義者の言い草を吉見義明教授より信用する理由など一つもありません。ネタ元を探ってみると前掲の楊善英氏の論文のアブストラクトが見つかりました。これが直接のネタ元であるかどうかは断定できませんが、少なくとも間接的なネタ元になっていることは間違いなさそうです。しかしこの論文は「1886年から、廃娼連盟が解消して国民純潔同盟が成立する1935年までの約50年間」の時期を対象としたものなので、もちろんのこと「1930年から41年の間に13県が廃止」という記述への反論にはならないわけです。だが彼は自信満々です。私が典拠を問うと「こんな教科書レベルの年表に出典・・・例えば終戦記念日に出典載せる奴いないだろww吉見義明なんてネタ認定を載せても意味ない」と言い放つほどに! 私がネタ元を推定してみせたことに対しては「反論のソースぐらい正確に調べろよ、無駄にさえずるな」ですと。いやソースはお前が出すべきものであってこっちに調べさせるものじゃないだろ? 一体どの指がその文字列をタイプしたのか! そして彼によるところの「正確」なソースというのが
長崎県廃娼顛末及其成績 伊藤秀吉著
秋田県廃娼顛末 伊藤秀吉著長野県、昭和5年、「公娼廃止ニ関スル意見書」案が出され、警察が警戒に当たるほどの厳戒態勢の中、12月14日深夜の本会議で規律多数により廃娼決議案が可決された。しかし、10年間の猶予期間付きであったため、その後の戦争のためうやむやにされ、実現は戦後までずれ込んだ。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120119/p1#c1326981482)
なんだそうですが、これはまるで意味不明です。なぜ『長崎県廃娼顛末及其成績』が「戦前に公娼制度が廃止された県は群馬県と埼玉・秋田県だけ」の根拠になりうるのか? 長崎と秋田の廃娼婦運動について書かれた本になぜ長野県のことが書いてあるのか? そもそも典拠を示すことすらしない人間が1936年と1933年に書かれた本を読んでいるはずがありません。ちょっとググってみると伊藤秀吉氏の著作については国会図書館のミニ電子展示、「本の万華鏡」の第84回常設展示「廃娼運動の歴史」から引っ張ってきたことがわかります。
5.長崎県廃娼顛末及其成績
伊藤秀吉著 東京 国民純潔同盟 1936(昭和11) <684-331>
6.秋田県廃娼顛末
伊藤秀吉著 廓清会婦人強風会廃娼連盟 1933(昭和8) <特200-481>
(http://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/tmp/84.pdf)
長野県についての部分はこちらからコピペしてきたことがわかります。
昭和5年、小野を中心に5人の県議が提案者となり「公娼廃止ニ関スル意見書」案が出され、警察が警戒に当たるほどの厳戒態勢の中、12月14日深夜の本会議で規律多数により廃娼決議案が可決された。しかし、10年間の猶予期間付きであったため、その後の戦争のためうやむやにされ、実現は戦後までずれ込んだと、『信州・女の昭和史 戦前編』(青木孝寿著 信濃毎日新聞社 1987)[N367-38-1]p17〜29、『長野県政史 第1巻』(長野県編・刊 1971)[N317-74-1]p515〜517及び、『同 第2巻』 (長野県編・刊 1972)[N317-74-2])p232〜234にある。
ネタ元について図星をさされ、悔し紛れにあちこちさがして一見するとそれらしい(しかし「戦前に公娼制度が廃止された県は群馬県と埼玉・秋田県だけ」の根拠にはおよそなりようがない)を探してきたものと思われます。この時期になると大学教員のツイッターアカウントでレポートにおけるコピペのことが話題になったりするものですが、ちょっと調べればすぐ探し当てることができる情報(しかもテーマに照らして的外れな)を、出典を隠してコピペするという“手法”はまさにコピペレポートのそれですね。
さすがに彼は「俺は君と違って間違った部分は認めるからね。群馬・埼玉・秋田県以外にも廃娼はあっただろう」と認めましたが、ほんの数時間前に「教科書レベルの年表」と言い放った自信は一体どこからきたんですかね? 「ネタ認定」などという誹謗について吉見氏にも謝罪すべきでしょう。
ところが、彼のコピペはこれだけじゃないんですな。ノビーからのコピペと同じく dj19 さんが指摘されてます。
日本で終戦の僅か11日後の1945年8月26日に「特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association – “RAA”)」が設立された。これは、「何もせずに放置すれば、進駐してきた米軍兵士によるレイプが多発する」事を恐れての処置であり、実際に米軍が「神奈川県」に進駐してきた最初の10日間に、県下だけで既に1336件のレイプ事件が発生したという事実がある。
(http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20120119/p1#c1326964859)
ものの本によると、この「パンパン」の前身は、終戦の僅か11日後の1945年8月26日に設立された「特殊慰安施設協会(Recreation and Amusement Association – “RAA”)」であるという。日本の内務省は、実は終戦の僅か3日後の8月18日には、「外国軍駐屯地における慰安施設設置に関する内務省警保局長通牒」というものを、連合国軍総司令部の許可に基づき各県に発令している。これは、「何もせずに放置すれば、進駐してきた米軍兵士によるレイプが多発する」事を恐れての処置であり、「一般の婦女子を守る防波堤の役割を果たす」という事が、公然と言われていた。
現実に、ナチス崩壊後のドイツでは11000人以上のドイツ人女性が、ソ連兵と西側連合国軍の兵士によるレイプの犠牲者になったと言われているし、沖縄への米兵の上陸後にもレイプが頻発、米兵によるレイプの犠牲になった女性の数は10000人近くにも及ぶという報告もある。はっきりと数えられている記録としては、米軍が神奈川県に進駐してきた最初の10日間に、県下だけで既に1336件のレイプ事件が発生したという事実がある。かつての敵対国に進駐してきた戦勝国の兵隊というものは、程度の差こそあれ、大体はこういうものであり、戦勝国の軍当局はこういう犯罪に対して厳罰は科さないのが普通だ。
(http://blogos.com/article/27902/)
長くなるので省略しますが、他の部分もコピペしてちょこっと手を加えただけです。これだけ典拠を示さぬコピペを平然と続けることを可能にしているのは、断じて「無知」ではありません。
(なお、「1336件」という数字については gansyu さんのコメントに端を発するやりとりがありますので、興味のある方はご覧下さい。もちろん、被害者の数それ自体は本質的な事柄でないというのは当然のことです。)