『南京の真実』と陰謀論

本館の掲示板でEzoWolfさんからご教示をいただいたので、『正論』最新号の「製作日誌」を立ち読みしてきたのですが、以前アイリス・チャンの「自殺」の背後に陰謀ありと臭わせたのに続いて、今回は南京防衛軍司令官唐生智が共産党のスパイだった、と主張されております。映画のシナリオにも採用されるのかな? 陰謀論としても非常におおらか粗雑なもので、「中共の陰謀で南京の国民党軍が全滅して共産党政府ができた」みたいな図式になってます。こんなもの、まともに相手する必要もないわけですけど、「後付け陰謀論」の特徴がよくあらわれていて興味深いですね。中国共産党が「国民党軍と日本軍の共倒れ」を願った、というのは別に問題ないわけですが、そのためにはどっちかが早々に壊滅しちゃってはダメなわけです。だとすれば南京防衛戦で中国軍が壊滅的な打撃を被るというのは、別に共産党にとって好ましいことではないわけで。結果を知ってるから「中共の陰謀で南京の国民党軍が全滅して共産党政府ができた」なんて雑なシナリオを描けるわけですが、当時の中国共産党のパースペクティヴから考えると全然リアリティがないわけですよ。


さて「陰謀論」について最近拝見した論考で面白かったのが、sumita-mさんの次のエントリ、およびそこ経由で知った小田亮さんの書評です。

sumita-mさんは2005年に書かれた自身のエントリから引用して次のように陰謀論(「陰謀理論」)を特徴づけています。

私見では、「陰謀理論」の前提にあるのは、個人にせよ集合体にせよ、〈主体〉の力能への過信である。そもそも自らの〈主体性〉に自信のある人は「陰謀理論」にはあまりはまらないだろうけど、自らにはそのような力能はなくても、どこかにオムニポテントな個人的・集合的〈主体〉がいる筈だという願望的確信が抱かれる。特に、自らの〈主体性〉が危機的状況にあると感じている人にとって、「陰謀理論」は自らの剥奪された(と妄想されている)オムニポテントな〈主体性〉が実在若しくは架空の〈主体〉に投影されているわけである。

観察によっても陰謀論の言説には被害者意識が濃厚に漂っているわけで、「日本=情報戦の敗者」という、このところ右派が好んで用いる図式がその好例です。小田亮さんのエントリのコメント欄では「かいとばば」という方が「「陰謀論」が情報の欠如による自分の「負け」を、自己責任ではない形で自分で引き受けることを可能にするっていうところが興味深いです」とコメントされてますが。南京事件否定論者はあるときにはやたら居丈高というか、自信ありげにみえるのに、その実えらく「守りの姿勢」なんですよね。日本は南京大虐殺プロパガンダで包囲されている、しかし自分たちは真実を知っている、と規定しておきながら、ふたこと目には「なかった、という側に立証責任はない」とか言い出すわけです。あんたらがなにも「立証」しなけりゃ人々の認識は変わらんだろうが、と。一つには多くのネット否定論者がどうも東中野修道の著作すらまともに読んでないっぽい、という気合い不足もあるんでしょうけど、「自分の「負け」を、自己責任ではない形で自分で引き受け」てしまうと自分から何かをして「負け」を取り戻そうという行為には踏み出さない口実ができてしまうわけです。「負け」を取り戻そうとして行動するとよりいっそうの敗北を喫する可能性がありますが、こっそり愚痴口言ってる分には「現状維持」は可能ですからね。


同じく本館の掲示板で黒的九月さんが「ここ数ヶ月でエキセントリックな右派系サイトの停止や崩壊が相次いでますが、何かあったんでしょうか?」とおっしゃってますが、これが数字で裏付けることのできる観察かどうか、そこは私にはちょっとわかりません。しかしこの種のトピックに関する右派の陰謀論が特に「エキセントリック」なものになりやすい理由はわかるような気がします*1南京大虐殺を日本政府がきっぱりと否定しないのはなぜか。大虐殺を全面的に否認させようという彼らの目論見にとっての障害が実のところ日本政府それ自体だ、ってことを認めないからです。別に歴史認識問題に限らず、政府与党が「これ以上右には行けない」と判断したからこそ現状があるわけです。にもかかわらず、日教組だの労組だの在日だの日共だの、一度たりとも日本社会全体の中でマジョリティだったためしのない(そして近年勢力が弱まる一方の)集団を陰謀の主体として想定するから、例えば旧日本陸軍将校たちが編纂した資料集に収録されている資料すら「捏造」呼ばわりするなど*2、なおさら無理筋の陰謀論にならざるを得ないわけです。

*1:陰謀論それ自体はもちろん右派の専売特許でもなんでもありませんが。

*2:旧軍に不利な証言は全部中帰連の仕業にする、ってメソッドもありますし。