「天下三分の計」と旧陸軍の中国認識

単なる連想、思いつきで(現時点では)なんの根拠があるわけでもないはなしなので、そのつもりで読み流していただければ。
現在テレビその他のメディアではジョン・ウーの新作『レッド・クリフ』の宣伝がさかんに繰り返されている。映画の描写は長坂の戦いから始まるそうだが、その少し前に例の「三顧の礼」のエピソードがあり、諸葛亮劉備に「天下三分の計」を説く、という場面がある。さて、日本での「三国志」人気に大きく貢献した吉川英治の『三国志』ではこの場面に、以下のような一文が挿入されている。

 孔明の力説するところは、平常の彼の持論たる
 =支那三分の計=であった。
 一体、わが大陸は広すぎる。故に、常にどこかで騒乱があり、一波万波をよび、全土の禍いとなる。
 これを統一するは容易ではない。いわんや、今日に於いてはである。
(…)

曹操は「天の時」を、孫権は「地の利」を占めているので劉備は「人の和」を占めるために荊州益州を根拠地とせよ……、というこの後の提言は『三国志演義』にもあるし、正史の「諸葛亮伝」にもその原型となる記述はあるが、「一体、わが大陸は広すぎる」「これを統一するは容易ではない」などは吉川の脚色というか加筆である(しらみつぶしに読んだわけではもちろんないので他の箇所に同様な記述があるのかもしれないが、少なくとも「天下三分の計」を説く場面にもってきたのは吉川、ということになる)。
ところで、吉川『三国志』が新聞に連載されたのは1939年8月から43年9月であるから、作品を構想したのは日中戦争の初期と言ってよいだろう。おおざっぱに言えば、満州事変以降陸軍が華北に、後には華中にも「新政権」樹立の工作を盛んに行なっていた時期のことである。そうした工作の背景となりまたそれを(主観的には)正当化したのが国民党不信と結びついた「中国非国論」などと呼ばれる認識、すなわち中国は近代国家の体をなしておらず(国民党による)統一は不可能でありまた(日本の利益のためにも)統一されるべきではない、という認識である。その種の議論は当然当時のメディアでも展開されていたし、さらに吉川は盧溝橋事件直後の3837年8月には毎日新聞社の特派員として華北戦線を視察、翌3938年9月には従軍作家として南京や漢口を訪問している(講談社吉川英治文庫版第8巻の、松本昭による「「三国志」茶話」より)から、軍人の口からその種の見解を聞かされた可能性もあろう。吉川英治研究を参照すればこのあたりの事情はわかるのかもしれないが、気になったので「時間ができたら調べる」意思の表明としてとりあえず書いておくことにした。