「合祀」関連訴訟判決例

遺族が靖国神社護国神社への「合祀」の取り消しなどを求めて訴訟を起こした訴訟の判決より、ここで問題にしたい論点に関わる部分のみをクリップ。

 私人相互間において憲法二〇条一項前段及び同条二項によって保障される信教の自由の侵害があり、その態様、程度が社会的に許容し得る限度を超えるときは、場合によっては、私的自治に対する一般的制限規定である民法一条、九〇条や不法行為に関する諸規定等の適切な運用によって、法的保護が図られるべきである(最高裁昭和四三年(オ)第九三二号同四八年一二月一二日大法廷判決・民集二七巻一一号一五三六頁参照)。しかし、人が自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、そのことに不快の感情を持ち、そのようなことがないよう望むことのあるのは、その心情として当然であるとしても、かかる宗教上の感情を被侵害利益として、直ちに損害賠償を請求し、又は差し止めを請求するなどの法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となるに至ることは、見易いところである。信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである。このことは死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合においても同様である。何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されているからである。原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない性質のものである。
(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/347A9FD1D4A55C1849256A8500311EF9.pdf)

ただしこの点に関しては裁判官坂上壽夫が次のような意見を述べている(強調は引用者)。

一 多数意見は、死去した配偶者の追慕、慰霊等に関する場合をも含めて、原審が宗教上の人格権であるとする静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益なるものは、これを直ちに法的利益として認めることができない、と判示するが、私はこの点に賛同することができない。
 多数意見が右判示の理由とするところをみると、私人相互間において「自己の信仰生活の静謐を他者の宗教上の行為によって害されたとし、」「かかる宗教上の感情を被侵害利益として、」「法的救済を求めることができるとするならば、かえって相手方の信教の自由を妨げる結果となる」のであって、「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信教の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請している」と説示している。私も、一般論としては、正にそのとおりだろうと考えるが、しかし、この一般論を本件のように県護国神社のした孝文の合祀によりその妻である被上告人が不快の感情を抱き、心の静謐を害されたとする場合にまで及ぼすことはできないと考える。けだし、故人につきどのような宗教的方法で追慕、慰霊等を行っても、それは信教の自由として誰にでも保障されているというのは、既に当該故人の近親者が現存しない歴史上の人物等の場合にいえることなのであって、その配偶者、子女又は父母などの近親者が遺族として現存している場合にも、これらの者の意思に反する宗教的方法で追慕、慰霊等を行うことを何人にも認め、遺族である近親者は、それが宗教にかかわるものである限り、いかに心の静謐を害されても、これに口を挟むことは許されず、これを坐視し、受忍しなければならないというのは、一般人の常識、社会通念に著しく反すると考えられるからである。
 してみれば、何人も、死去した近親者の追慕、慰霊等については、それが誰によって行われる場合であっても、自己の意思に反しない宗教的方法によってのみ行われることにより、その信仰に関する心の静謐を保持する法的利益を有すると解するのが相当であり、これは宗教上の人格権の一内容ということができる。多数意見の説示する「何人かをその信仰の対象とし、あるいは自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されている」ということは、故人の近親者の意思に反することのない場合においてのみいえることといわなければならない。
 したがって、人は、死去した近親者に関して、他者により自己の意思に反する宗教的方法で追慕、慰霊等が行われ、その結果、自己の心の静謐が害された場合には、その宗教上の人格権に基づき、法的救済を求めることができるというべきである。このような見解に対しては、当該他者の信教の自由が侵害される結果となるとの反論があるであろうが、憲法の保障する信教の自由といえども、他の人格権を侵害する場合にまで保障されるものでないことはいうまでもなく、信教の自由には当然にこのような制約が内在しているというべきである。
 これを本件についてみるに、県護国神社による孝文の合祀は、信教の自由により保障されているところとして同神社が自由になし得ることは、多数意見のいうとおりである。しかし、それが孝文の配偶者である被上告人の意思に反したものであり、被上告人がそれにより不快の感情をもち、その信仰に関する心の静謐を害された以上、被上告人は法的利益を侵害されたものといわなければならない。
 このような法的利益の存在を否定する多数意見には、賛同し難い。

ただしこの訴訟の場合、合祀された故人の父は妻とは違って合祀を喜んでいるという事情があり、「故人の近親者の間における人格権と人格権の衝突」が生じており、かつ「故人の配偶者である被上告人と故人の父である之丞等との関係において、特に被上告人の心の静謐を優先すべき事情が認められない」という理由で、結論としては多数意見に同意している。
また裁判官伊藤正己の反対意見もある。これまた「宗教的人格権」に関する部分のみ。同じく強調は引用者。

 私は、現代社会において、他者から自己の欲しない刺激によって心を乱されない利益、いわば心の静穏の利益もまた、不法行為法上、被侵害利益となりうるものと認めてよいと考える。この利益が宗教上の領域において認められるとき、これを宗教上の人格権あるいは宗教上のプライバシーということもできるが、それは呼称の問題である。これを憲法13条によって基礎づけることもできなくはない。私は、そのような呼称や憲法上の根拠はともかくとして、少なくとも、このような宗教上の心の静穏を不法行為法上の法的利益として認めうれば足りると考える。社会の発展とともに、不法行為法上の保護利益は拡大されてきたが、このような宗教上の心の静穏の要求もまた現在において、一つの法的利益たるを失わないといってよい。本件においても、被上告人がキリスト教信仰によって亡夫孝文を宗教的に取り扱おうとしているのに、合祀の結果その意に反して神社神道の祭神として祀られ、鎮座祭への参拝を希望され、事実に反して被上告人の篤志により神楽料が奉納されたとして通知を受け、永代にわたって命日祭を斎行されるというのは、まさに宗教上の心の静穏を乱されるものであり、法的利益の侵害があったものといわねばならず、県護国神社への合祀は、被上告人に対し、せいぜい不快の感情を与えるにとどまるもので法的な利益の侵害があったとは認められないとするのは適切でない。
 私は、基本的人権、特に精神的自由にかかわる問題を考える場合に少数者の保護という視点に立つことが必要であり、特に司法の場においてそれが要求されると考えている。多数支配を前提とする民主制にあっても、基本的人権として多数の意思をもっても奪うことのできない利益を守ることが要請されるのはこのためである。思想や信条の領域において、多数者の賛同するものは特に憲法上の保障がなくても侵害されるおそれはないといってもよく、その保障が意味をもつのは、多数者の嫌悪する少数者の思想や信条である。宗教の領域にあっては、わが国における宗教意識の雑居性から宗教的な無関心さが一般化しているだけに、宗教的な潔癖さの鋭い少数者を傷つけることが少なくない。「たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあっても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されない」という藤林裁判官の意見(多数意見引用の昭和52年7月13日大法廷判決における追加反対意見)は傾聴すべきものと思われる。本件において、被上告人は宗教上の潔癖感が余りにも強いという批判もありうるかもしれない。しかし、そこに少数者にとって守られるべき利益があるというべきであり、宗教的な心の静穏は少なくとも不法行為法上の保護を受ける利益であると認めてよいと思われる。このような心の静穏は、人格権の一つということができないわけではないが、まだ利益として十分強固なものとはいえず、信仰を理由に不利益を課したり、特定の宗教を強制したりすることによって侵される信教の自由に比して、なお法的利益としての保護の程度が低いことは認めざるをえないであろう。しかし、そうであるからといって、宗教的な心の静穏が不法行為法における法的利益に当たることを否定する根拠となりえないことはいうまでもない。

  • 平成18(ワ)8280 大阪地裁 「霊璽簿からの氏名抹消等請求事件」

イ 本件における原告らの法的利益について
 これを本件についてみると、原告らは、敬愛追慕の情を基軸とする人格権が被侵害利益であるとして、「近親者等に対する敬愛追慕の情は、近親者等について見い出した意義、形成したイメージ及びそこから生じる自身についての生存の意義、自己イメージと不可分一体のものであり、個人の人格的生存に不可欠のものといえ、かかる感情は、人格権の一内容を構成するものとして、憲法上ないし私法上の保護を受けるべきものである」と主張している。
しかし、原告らの主張する「自己イメージ」というものは、人に対する社会的評価であるところの名誉や、外形的な情報であって社会的評価が可能なプライバシーと比べても、余りにも主観的かつ抽象的なものであって、その概念が示す範囲自体画定し難く、内容も、もともと無限定である上、外部からの統制なしに形成し得ることもあって、無制限に膨らみ得るものであり、かように、概念が確立されておらず、その内容及び外延が判然とせず、社会に定着していない「自己イメージ」を、名誉やプライバシーの概念を媒介にしないで直接の法的保護の対象とすることはそもそも困難であるといわざるを得ないし、自己情報を規律する権利といわれるものにおいても未だ概念が定着していないだけでなく、遺族との関係に関する情報までその中に含まれるかについては議論が全く進んでいない状況にあるのであって、上記「自己イメージ」を中核とする感情に法的利益を認めることは困難である。
 また、人は社会的な存在であって、他者からイメージを付与されることが不可避であるところ、故人に対して縁のある他者が抱くイメージも多々存在するものであり、故人に対する遺族のイメージのみを、法的に保護すべきものであるとは考えられない。
 そうすると、名誉権の侵害及びプライバシーの利益の侵害を具体的に主張していない原告らの主張する人格権の中核となる敬愛追慕の情は、結局のところ、前記第2、3(6)における【原告らの主張】の内容からすると、被告靖國神社による本件戦没者の合祀という宗教的行為による不快の心情ないし被告靖國神社に対する嫌悪の感情と評価するほかなく、これをもって直ちに損害賠償請求や差止請求を導く法的利益として認めることができない。


ウ 原告らの主張について
これに対し、原告らは、次のとおり主張しているが、いずれの主張についても、これを採用することができない。
(ア) 原告らが指摘する裁判例等について
a 原告らは、1平成18年最高裁判決における滝井補足意見、2「落日燃ゆ」事件一審判決等によって、敬愛追慕の情を基軸とする人格権が法的利益を有していると認められている旨主張する。
 しかし、滝井補足意見は、そもそも、「人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活等に対して圧迫、干渉を加えるような性質のものではないから、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを被侵害利益として、直ちに損害賠償を求めることはできないと解するのが相当である。」と判示した平成18年最高裁判決における補足意見であって上記判示を支持する立場を前提にするものであるし、また、滝井補足意見自身、「何人も公権力が自己の信じる宗教によって静謐な環境の下で特別の関係のある故人の霊を追悼することを妨けたり、その意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否することができる」と述べていることからすると、公権力などの自由権の享有主体でないものが主宰している場合を念頭においているとみるのが相当であり、信教の自由の享有主体である私人や私的団体が主宰している場合についてまで法的利益性を承認する趣旨であるかは疑問であるというべきである。
 そして、本件においては、後記(3)のとおり、合祀を主宰しているのは、被告靖國神社であって、被告国はその主体ではなく、また、被告靖國神社はあくまで一宗教法人であって公権力と同視することはできないから、滝井補足意見の当否にかかわらず、原告らの上記1に関する主張は採用することができない。
b また、原告らの引用する他の裁判例は、死者に対する直接的な名誉毀損行為又はプライバシー侵害行為の事案であって、直接に保護されるのは、死者に対する社会的評価及び死者のプライバシーという、要保護性が社会的に承認され、かつ、遺族らの心情や感情によっては侵害の成否が左右されないものであり、そのようなものを抜きに遺族らの心情や感情を直接に保護しようとしたものでないことは明らかである。そして、本件においては、後記(2)のとおり、被告靖國神社は、本件戦没者の合祀に関する具体的事実を対外的に明らかにしたとは認められないのであるから、名誉毀損及びプライバシー侵害が成立するとは到底考えられず、原告らの引用する裁判例は、本件には当てはまらず、原告らの上記2に関する主張も採用することができない。


(イ) 宗教的人格権との相違に関する主張について
a 原告らは、昭和63年大法廷判決における「静謐な宗教的環境の下で信仰生活を送るべき利益」と本件訴訟における「敬愛追慕の情を基軸とした人格権」の間には、1権利の帰属する者が限られている点、2宗教的側面を有しない点の2点において大きな相違があり、昭和63年大法廷判決の射程は本件には及ばないと主張する。
b しかし、上記アで判示したとおり、人が自己の信仰する宗教により何人かを追慕し、その魂の安らぎを求めるなどの宗教的行為をする自由は、誰にでも保障されていると解するのが相当である。そして、追慕・慰霊の性質からしても、故人に対する追慕・慰霊とは、行為者の精神における死者との交流であり、追慕・慰霊行為はその交流を実現する個人的な行為であって、また、団体においてもその内部に当然に個人の存在を予定しているので、故人の遺族だけでなく、故人の友人・知人を含む社会的関係者関係団体にも、それぞれの思想信仰に基づいて故人を追慕・慰霊する自由があると解するのが相当である。したがって、故人の遺族以外の者が、故人に対する慰霊行為等をする場合には、故人の遺族等の同意・承認等を得ることが社会的儀礼として望ましいとしても、故人の遺族が独占的に追慕・慰霊行為をし、他者のそれを排除し得るような権利・法的利益を有しているとはいえないので、原告らの上記1に関する主張は採用することができない。
c また、昭和63年大法廷判決は、直接的には宗教的人格権について判断しているものの、その実質は、他者の信教の自由との調整に関する判断をしていると理解すべきであって、その判断は、上記アで判示したとおり、人が他者の宗教的行為によって生ずる宗教的感情以外の不快の心情ないし感情を持つ場合における信教の自由との調整についても妥当するものであるから、原告らの上記2に関する主張は採用することができない。


(ウ) 被告靖國神社の信教の自由について
a 原告らは、1被告靖國神社の歴史的経緯、法人性から、被告靖國神社の信教の自由は、その他の者の信教の自由及び個人の信教の自由に比べて一定程度制約を受けるべきである、2被告靖國神社が法人として宗教行為の自由を有するとしても、何らの制約もなしに権利行使が許されるものではないから、原告らの意思に反した合祀行為及び合祀継続行為は許されない旨主張する。
b しかし、憲法は、20条1項前段において、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。」と規定しており、個人と団体を何ら区別することなく、また、すべての主体に平等に保障しているのであるから、宗教団体に対しても当然に信教の自由を保障していると解すべきであり、また、宗教団体には、その内部に個人が存在するところ、特定の宗教団体について信教の自由を制約したり、他に劣後した扱いをすることになると、当然にその宗教団体に帰属する個人の信教の自由に対する制約が生じる可能性がある上に、国家にとって不都合な宗教団体を邪教として制約する道筋を開く解釈をすることは著しく危険であるので、原告らの上記1に関する主張は採用することができない。
c また、一般に、宗教行為の自由は、その行為自体が外部的に表現されるものである以上、他者との権利衝突が生じる場面は避けられず、その場合には当然、他者の権利との間での調整が必要になるので、被告靖國神社が法人として宗教行為の自由を有していたとしても、何らの制約もなしにその権利行使が許されるものではないことは、原告らの主張のとおりである。
 しかしながら、本件において、被告靖國神社の合祀行為そのものは、祭神を祀るという極めて抽象的観念的なものであって、信仰の自由そのものと同視できるものであるから、他者との権利衝突を観念することができず、したがって、他者との権利衝突の存在を前提とする、原告らの上記2に関する主張は採用することができない。
(http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090410182748.pdf)