21日放送「報道特集」、「日中戦争 衝撃写真が語る“軍事作戦”」
昨日のエントリで告知した番組、録画しておいたのを見ました。(23日の午後11時からCSで再放送されます。)
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130814/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20130921/p1
問題の写真については、東京都写真美術館の専門調査員を登場させて、信憑性について証言させています。引き延ばし器を使わずにフィルムと印画紙を重ねて焼く「密着焼き」、いわゆるベタ焼きという方法でプリントされたと推定される写真なので、合成その他の作為の余地はまずない、という趣旨の発言でした。なお、ナレーションが「『密着焼き』という手法で現像されている」としていたのは間違いです。「現像」ではなく「焼き付け」の手法ですから。また、写真の主が家族に送った軍事郵便によれば、フィルムの方は処分され、僅かなプリントしか残らなかったとのことです。
他に専門家として登場するのはまず専修大学文学部の新井勝紘教授(軍事郵便研究)。本来なら検閲にひっかかったはずの写真だが、年間4億通もあった軍事郵便のすべてをチェックすることは現実には無理だったろう、と。また、自分自身が写っている写真を遺して虐殺の証拠となっている点で「他に例がない」とも。
また、当時の日本兵の心理を解説する役どころで精神科医の岡田靖雄氏が登場。画面に不二出版から刊行された『戦場心理の研究 第四冊』という本の背表紙が映るが、これは写真を遺した兵士と同じ戦場に従軍した早尾乕雄・陸軍軍医中尉の作成した資料を復刻したもの。
http://bit.ly/1bzmek5
岡田氏はその編者の一人。
現地取材は、写真の主が所属していた近衛師団の後備歩兵中隊が駐屯していた楓芤(ふうけい)と、虐殺の現場である銭家草で。興味深いのは次の点です。軍事郵便に転記された日記によれば、38年3月3日の「掃討」作戦は「土匪が集まって賭博をする」という情報を得て行なわれたものだというのですが、当時15歳だった女性の証言によれば「村人たちが麻雀をしている時」に日本軍がやってきた、とのことでした。さらに、当時3歳だった男性が後に聞いた話として、村人たちと小作料を巡る争いを抱えていた地主が密告したらしい、とも。これだけ符合すれば史実性に疑問を差し挟む余地はまったくありません。銭家草の記念碑には小さな村で63名が犠牲になった、と刻まれているそうです。
その他、写真の主の複数の遺族にも取材し、甥にあたる人物のコメントを紹介するなど、20分ほどの放映時間の背景にある分厚い取材を伺わせる内容でした。なお、古書店から写真を入手した書籍編集者の方が、一連の写真を書籍化する計画をお持ちだそうです。
さて、写真の主が所属していたのは、『南京戦史資料集I』から判断する限り、第十軍隷下の近衛師団後備第1〜第4大隊のいずれかです。第十軍には他にもいくつか、後備歩兵大隊が所属していましたが、いずれも兵站部の配下です。「後備」ということは若くても20代終わりで召集された兵士たちから成る部隊ですので、前線ではなく後方の警備任務にあたっていたわけです。しかし残虐行為に関わるのが決して最前線の部隊だけでないことは、別の資料によっても裏付けることができます。第十軍法務部長だった法務官・小川関治郎が遺した日記がみすず書房から刊行されていますが(『ある軍法務官の日記』)、その37年12月26日分には次のような記述があります。
吉×××事件は十二月十七日金山に於て支那人間に稍々不穏の挙動ある如きことを聞き 直ちに部下数十名を引率し支那人部落に至り射殺斬殺を為したる事実にして その間上官に十分連絡せざるのみならず 一つの好奇心より支那人を殺害せんとの念に基くとも認めらる 同隊は前線の戦闘に加わらず 従って支那人を殺さんとの一種独特の観念に駆られたるとも認むべく 戦場にては斯かる念を生ずるもの少なからず 又支那人に対する人格尊重薄きによるものの如し
同じくみすず書房から刊行されている『続 現代史資料 6 軍事警察』に収録されている、第十軍法務部の陣中日誌にも同事件についての記載があり(ただし事件の日付は12月15日とされています)、それによれば加害者がやはり後備歩兵大隊の将兵だったこと、また被疑者は陸軍刑法の「三一〇条告知」という、事実上「おとがめなし」の処分に終わっていることがわかります。
なお、写真の主は中隊長(?)が「女子供に手をつけるな」と叫んだのを聞いたと日記に記しています。殺害したのが成人男性だけならマシだとはもちろん言えませんが、現場の指揮官次第で戦場の残虐行為のあり方に違いが出るということも否定できない事実でしょう。