『私は貝になりたい』を反米プロパガンダのファンタジーと断罪する者だけが『鬼郷』に石を投げよ
日本では商業ベースでの上映などおよそ実現しそうにない映画『鬼郷』に対して歴史修正主義者が難癖をつけていることについては、すでに法華狼さんが紹介しておられる。
http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20160216/1455694424
産経新聞はというと、予想を裏切らないコラムが掲載されている。
http://www.sankei.com/column/news/160305/clm1603050005-n1.html
この映画が元「慰安婦」被害者カン・イルチュルさんの証言をもとにしつつも劇映画としての脚色を加えられたものであることは、制作者の発言やこの映画のジャンル分類(「ドキュメンタリー」映画であるとはされていない)などからも明らかである。したがって、この映画が「全ての慰安婦がこのような目にあった、主張している!」などと言う人間がいるとすれば、それはその者の映画リテラシーの欠如を現しているに過ぎない。
そもそも劇映画が“典型的な状況”だけを描かねばならないとする理由などないわけだが、日本において高評価を受けてきた戦争関連映画にも“きわめて偏った”ものがあることも指摘しておきたい。タイトルに挙げた『私は貝になりたい』である。
この映画が“ゴボウを捕虜に食べさせたせいで死刑になった日本兵がいる”というデマの起源(の一つ)となり、さらには「裁判記録を読んだ」などと嘘をつくデマゴーグまで生み出したことは、このブログでも過去に指摘しておいた。主人公の元二等兵は死刑になるわけだが、実際のBC級戦犯裁判では死刑を執行された二等兵はおらず、一等兵は2人だけ、上等兵および兵長(これらの階級は“ただ招集されただけ”の者としては軍隊の中で“うまくやってきた”ことを意味する)があわせて23人にすぎない。軍隊というのが階級が上がるほど人数の減るピラミッド状の組織であることを考えれば、BC級戦犯裁判で将校でも下士官でもない兵士が死刑になる、というのは非典型的もいいところなケースだということがわかる。これに比べれば、『鬼郷』で描かれたような「慰安婦」の状況が非典型的であるという主張の方が、遥かに具体的根拠がない、ただの願望に引きづられたものであることは明らかだろう。
では現実にはない設定を持ち込んだ『私は貝になりたい』はただの反米プロパガンダ映画として斥けられるべきなのだろうか? もちろんそんなことはないし、現に日本ではそのような評価は受けてこなかった。というのも、「二等兵」という地位は“命令に従った結果として過酷な目に遭う”という普遍性をもつモチーフを表現するうえで、非常にわかりやすい設定だからだ。
もちろん私なら、こういう批判はする。二等兵よりも軍隊内ハイアラーキーの下位にあり、かつ現実に刑死者を出した軍属(捕虜監視員が多かった)、特に植民地出身者を主人公にすることができなかったのはなぜか? と。