補記その2


しまうまさんたちが個別にコメントしてくださってるので同じことの繰り返しは止めます。まあ多くのコメントについてはしまうまさんの
あなたが歴史が「これが証拠、はい終了」というものだけで構成されていると思っているとしたら大間違いだと言うことです。そして例えばドレスデン爆撃など死者数の推定が困難なものがあっても、だからと言って「そのようなものは存在しない」などという人間は、二分法に囚われたバカだということです。
とか「通りすがり」さんの
「真or偽の断定が常に可能と考えること」の愚かさを説く論に対して、噛み付くに事欠いて「真であることを明証しろ、できないだろう、じゃあ偽だ」という論法。
でもって「一件落着」という感じです。コメントするに価すると思われた点についてのみ補記します。


最初に上の「通りすがり」さんが引用した部分のあとで述べている「もっとも、知性とは本質的には要約することだと思いますので、真偽をさておいても簡潔な表現に魅かれるのは不可避的な傾向であるとは思いますが」という点。基本的にはおっしゃる通りだと思います。個物を個物としてしか扱えなければわれわれは世界についてなにも知ることができなくなるでしょう。だが単純化がプラスの認識的な価値をもつ場面もあればその逆の場合もあり、単純化の弊害を免れるためにも「単純化する傾向がある」ことを知っておくのは有益だ、ということですね。もうひとつ、科学者も理論を評価する際に「単純さ」を考慮に入れますが、自然科学や社会科学における(プラスの意味での)単純さと部外者が考えている単純さとが一致しない場合がある、ということもあるかな、と。ある人々にとっては「霊」の存在を認めた説明はシンプルですっきりしているように思えるかもしれないけど、自然科学者にとってはそうではない、とか。


ペペロンチーノさんのコメントに対してはゆーきさんが返答してくださってますが、私自身もその点について書いています。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20061026/p1
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060702/p1(および後続する一連のエントリ)
もっとも、近現代史の分野に「裁判における事実認定の手法」を応用しようとする試みがないわけではありません。『歴史の事実をどう認定しどう教えるか』(笠原十九司ほか、教育史料出版会)の執筆者には弁護士が加わっていて、「裁判における事実認定の手法を用いて、資料と証言をもとに歴史の事実を検証」(帯より)しよう、という試みをしています。文書記録や証言記録の評価については(特にオーラル・ヒストリーを重視する流れも生まれてきている今日では)司法関係者が培ってきたノウハウが役に立つということは十分考えられます。もちろん資料・証言の「証拠能力」に関しては刑事裁判と同じ基準を採るわけにいきませんが。
ついでに言えばaaさんの主張は「証拠能力と証明力の根本的違い」なんてものとは関係ありません。しまうまさんと私が問題にしているのは「一般に認識されている犠牲者数について異論の余地なく証拠がそろっている大虐殺などむしろまれなのに、南京事件についてだけ証拠の不足を言い立てる欺瞞」です。「これは軍における内部資料(絨毯爆撃と原爆の貴重なデータ)なので、捏造・歪曲が無い飛び切りの一次資料なんですがね」などと書いているところから判断すれば、むしろ「証拠能力と証明力の根本的違い」を理解していないのはaaさんの方でしょう。南京事件に関しても旧日本軍の戦闘詳報だとか第十軍法務部陣中日誌・軍法会議日誌のような「軍における内部資料」が一部現存していますが、捕虜の殺害を「戦果」として記録している場合、その数についての記載をどう評価すべきかは当然問題になります。


つぎに「かじめ」さんのコメント。

そもそも「中国共産党は良く、日本軍は鬼畜で絶対悪」という二分法の支配が長かったわけですが
そのあたりの経緯をすっとばした(おそらくは意図的に)エントリは如何なものでしょうか。
「北京にはハエも居ない」なんてことを知識人が真面目に言い、誰も笑えない時代がありました。
ここにいらっしゃる方々はご存じないわけないと思います。
「そりゃ嘘だろう」という声をようやくおおっぴらに上げられるようになってきたのが昨今です。
(後略)

これもよくあるパターンで、私が繰り返し批判してきた認識ですね。「中国共産党は良く、日本軍は鬼畜で絶対悪」という二分法が日本を「支配」した時期など一度もありません。もちろん、そうした二分法でものを考えた人間がいた(いる)ことは事実でしょうが。講和後、戦犯の赦免運動が奏効したことを考えても、「日本だけが悪いわけじゃない」が多数派の日本人の本音だったと考えるべきでしょう(そして「日本だけが悪いわけじゃない」論はたいていの場合「二分法にとらわれない思考」の産物とは言えんでしょう)。だいたい、「誰も笑えない」のなら左翼政党が政権とってないとおかしいでしょうが。南京事件否定論は70年代からあったんで、別に「昨今」可能になったわけじゃありません。

そもそも「日本軍は鬼畜の集団ではないだろう」というのは
常識的疑義としてまさに彼らが言い出したことであり、

彼らは「日本軍の軍紀はあくまで厳正だった」と主張するんですよ。そして「南京事件はあったというやつは、日本軍を鬼畜視している」と勝手に決めつけてるわけです。歴史学者は「日本軍を鬼畜視」していないからこそ、事件が起こった要因の分析に力を注いでいるわけですが。要するに「残虐なことをするのは生来鬼畜なやつ」「鬼畜じゃないなら残虐なことはしなかったはず」という単純な人間観を他人に投射しているだけなんですね。

そもそも「ない」という証拠は無いでしょう。論理学の基本です。
「否定派」は主に『中国共産党の主張する南京大虐殺に、歴史学的に信頼しうる根拠はない。』という主張なわけです。

「ない」という主張を「証拠」によって確証することはできますよ。「ある」という主張と矛盾する証拠を提示すればいいわけです。フロギストンが存在し「ない」ことやエーテルが存在し「ない」ことはちゃんと確証されています。南京事件の場合も、当時の人口移動を丁寧に追跡して「30万人(20万人)が殺害されたという主張と矛盾する人口」の存在を明らかにすればいいんです(ただし当時の総人口は20万、なんてインチキは抜きで)。あるいは日本軍が処刑したのは「便衣で攻撃をしかけてきた中国兵」であったことを証明すれば(追記:そして法的手続きを踏んで処刑したことを示す文書を発掘すれば)、一部については「なかった」と主張できます。
ついでですがこの「悪魔の証明」論法の濫用も「白か黒か思考」の一形態でしょうね。


あとは一般論として。2chの某板の某スレで見かけた反応なども参考に。ちょくちょく見かけるのが「犠牲者が30万人でない限り、南京事件はなかったのだ」とか「俺は虐殺があったことを否定してるわけじゃない(けど中国の主張はおかしい)」という主張です。前者についてはすでに青狐さんが「ローカル定義症候群」として分析しておられるので詳しくはそちらをご覧ください。私から付け加えるとすれば、戦犯裁判といったって東京裁判と南京裁判とでは事実認定も違うし、だいたい否定論者はふつう戦犯裁判の正統性を認めないのに、なぜ「南京事件」の定義についてだけ南京軍事法廷の「権威」を笠に着るのよ、と。
後者は上で引用した「かじめ」さんの「「否定派」は主に『中国共産党の主張する南京大虐殺に、歴史学的に信頼しうる根拠はない。』という主張なわけです」という発言に関連します。何度も言ってますが「十分な根拠がない」と「間違っている」は違うんですね。例えば「逆立ちしても否定できないのが5万人、十分な蓋然性であったと言えるのが10万人」という主張は、30万人説への異論とはなりますがそれを完全に排除するわけではありません。しかし否定論者だけでなく多くの人が「十分な根拠がない」から「間違っている」への飛躍をしてしまう。だいたい、「中国の主張もおかしい」という人々のなかに南京軍事法廷の資料なり、中国で公表されている論文、資料集などをきちんと読んだうえでそう判断している人間がどれだけいるでしょうか? 限られた専門家以外ほとんど誰も読んでいない、というのが現状でしょう。
もうひとつ、仮に中国側に「30万人説」の根拠の薄弱さなり間違いなりを認めさせることを目標に据えたとして、そのための障害になっているのはなにか。もちろんこの点では中国側に責任のある要因も多い*1わけだけれども、日本側に南京事件を否定したり矮小化したり相対化しようとする勢力がいることも間違いなく一つの要因です。それは、中国が南京事件についての調査、宣伝に本腰を入れたのが80年代半ばからだということからも明らかです。だからまずは「否定したり矮小化したり相対化しようとする」議論の影響力が事実上なくなる、といった事態にならない限り、欧米諸国だって南京事件に関して中国に反論することを歴史修正主義ではないか? という眼差しで眺め続けるだろう、と。

*1:南京事件も中国の言論状況を批判する格好の材料になっていて、そりゃあ結論自体は正しいから(ただし実際にどの程度の自由度があるかについてはきっちり裏をとる必要があって、ステレオタイプで片付けるのはよくない)批判すればいいと思うけれども、日本だって60年前までは似たようなもの、あるいはもっとひどかったということを忘れて、60年以上前の日本を誉めたがる人々が中国の言論状況を批判するのはちょっとかっこわるい。それに、言論の自由というのはどんなデタラメでも言いたい放題、ってことではない。中国側主張へのそれなりに真っ当な批判だけではなくデタラメな否定論が現に流通していること、これも言論の自由の機能不全として理解しておくべき。