]NHK教育ETV特集、『「アフガン戦争」 米ソ介入・秘められた真実』

以下、放送を見ながら断片的なメモ。
導入部:ロシアでアフガニスタン戦争当時の公文書がすでに公開され、当初派兵が否決されていたことが明らかになった、とのこと。
まずはアフガニスタン戦争までの経緯。タラキ革命評議会議長からコスイギンへの(派兵要請の)電話記録が公開。コスイギンは国際的な非難を恐れて派兵を渋る。ブレジネフがグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフ等に検討を指示。3人とも派兵に消極的。ブレジネフはタラキに自力で解決するよう伝える。カーター政権との軍縮交渉を最優先、と。
軍事顧問団はアフガン政権の動揺を伝えてくる(副首相アミンの不穏な動き)。アミンは「アフガニスタンスターリンになりたい、と言っていた」という当時の閣僚の証言。ブレジネフはタラキに「アミンに気をつけるよう」警告。軍事顧問団たちの面前でタラキはアミンを呼び出し、銃撃戦が始まる。翌日、アミンがタラキを逮捕、クーデーター成功。それでもアミンとの関係を維持する、というソ連の方針(ホーネッカー宛報告書)。しかしアミンはソ連の意向に反してタラキを殺害。リホフスキー(元)将軍によれば、これがアフガン派兵への引き金になった。
アメリカはアミン政権の成立に素早く反応。アミンから「友好関係」を求めると駐アフガン臨時大使に。クーデータの2ヶ月前、カーターは反政府ゲリラへの支援を命令。当時のCIA担当部長は、パキスタンからはなしを持ちかけてきた、という趣旨の証言。
アミンによる政敵の粛正。「ソ連だって粛正したではないか」、と。アミン(アメリカ留学経験あり)とCIAの接触KGBを刺激。しかしCIA側は「特別な関係は(当時)なかった」と否定。当時のアフガニスタン農業大臣は、「ソ連から離反する意図はなかった、関係を多角化したかっただけ」と証言。元内務大臣は「アメリカはアミンを支援していたがソ連との関係維持も望み、イスラム勢力とも連携しようとしていた」と証言。
イラン革命がアフガンに波及することを警戒するソ連。クーデターから1ヶ月後、グロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフは「アミンの西側への方向転換を阻止する行動」を提案。暗殺計画(リホフスキーの証言)。ソ連の懐疑を知り関係修復を図るアミン。ブレジネフはアミンとの会談を拒否。既に派兵が検討されていた。現地軍事顧問は派兵に反対。KGBはアミンに否定的、国境への派兵を提案、承認される(KGB>軍、という力関係)。
79年12月12日の政治局会議で派兵を事実上決定。12月25日派兵。アミンは自分が(宮殿警備のため)要請した軍隊の派遣だと思っていた。工作員によるアミン等の毒殺未遂→ソ連軍特殊部隊、アフガン大隊による攻撃開始。激しい銃撃戦の末アミン殺害(遺体の行方はいまだ不明、と)。カルマル政権樹立。ソ連は早期に撤退する方針。(第1部終了)

後半はアメリカの対応と戦争の泥沼化。
カーター、モスクワ五輪ボイコットやSALT II批准延期を表明。アフガンゲリラへの武器供与を開始。ブレジンスキー補佐官をパキスタンに派遣、ゲリラ支援への協力をとりつける。
ワレンコフ総司令官の証言。「ブレジネフは最大でも6ヶ月の駐留、軍事行動の必要はない、といった」と。しかし予想外の泥沼化。アフガン政府軍からは脱走兵が続出。82年末、武装ゲリラの指導者マスードと(和平のため)接触を試みる。ソ連側は派兵の誤りを認め、部分的停戦が成立。そこへレーガン政権が成立。ゲリラへの援助が100倍近くへ。
3月、アンドロポフ新書記長は「アメリカ帝国主義」への屈服を拒否。理論家だが行動力も経験もなく、アルコールに溺れるカルマル。
85年、ゴルバチョフの登場。86年、アフガンからの撤退に言及。当時の書記長補佐官の証言。「撤退はゴルバチョフの悲願」。国家予算の30%を占める軍事費の圧縮が必須、と。カルマルを更迭、ナジブラを擁立。
アメリカは武器供与を強化、公然化(スティンガー・ミサイル)。戦局は大きく変化。
86年11月、クレムリンは撤退を決意(アメリカが介入しないことを条件に)。反政府ゲリラをとり込む政策に転換。しかしナジブラは権力に固執パキスタンに集結する義勇軍
1987年5月、ソ連は国際的な枠組みでの解決を模索。焦点はソ連撤兵後の武器供与。アメリカの元大使は「ソ連側が供与停止に反対」と証言。ソ連側が「アメリカが供与を止めても中東諸国からは止まらない」として「武器供与の停止」は和平協定に盛り込まれず。反政府ゲリラはソ連の撤兵により結束を固める。ナジブラはマスードソ連との交渉を妨害。
1989年2月、撤退完了。アメリカは反政府勢力への支援継続を決定。ソ連も武器供与を継続。大規模な内戦へ。
「国民を敵にした、愚かな戦争」と元ソ連軍人の後悔。冷戦終結後の空白を衝いてタリバンが権力掌握。そして「9.11」へ。


私の個人的関心を差し引いても、日中戦争ヴェトナム戦争との共通点は明白でしょう。