白井洋子、『ベトナム戦争のアメリカ ―もう一つのアメリカ史―』、刀水書房

植民地時代のアメリカ史を専門とする研究者によるベトナム戦争論。第1章、第2章でまずヴェトナム戦争の経過が描かれる。北緯17度線は「いかなる意味でも恒久的なものとは見なされない」というジュネーヴ協定を無視して(アメリカは調印しなかった)「南ヴェトナム(ヴェトナム共和国)」という「虚構」を成立させ、さらにその上に「トンキン湾事件=北からの侵略」という虚構を重ねた戦争。重要なポイントの一つは、南ヴェトナム解放戦線の主力が(テト攻勢までは)南出身者であること、ホー・チ・ミンソ連や中国の操り人形ではないこと、などを示す情報をOSS、後にはCIAが収集していた、という指摘である。にもかかわらず、アメリカ政府は「ドミノ理論」に取り憑かれ、ヴェトナムの抵抗の意味を読み違えてしまった。1997年にヴェトナムを訪問したマクナマラ国務長官らがヴェトナム側の当時の指導者たちと会談した際の記録、『我々はなぜ戦争をしたのか 米国・ベトナム 敵との対話』(東大作、岩波書店)でも、当時のアメリカ側指導者が中国とヴェトナムの同盟関係を信じて疑わなかったことが指摘されている(マクナマラ中越戦争が勃発したとき「心底びっくりした」と語っている)。
第3章が本書の看板というか、ヴェトナム戦争を先住民制服戦争の延長線上に位置づけようとする試みである。残虐行為の頻発を含むヴェトナム戦争の性格(「ボディーカウント」を戦果として重視したことなど)が対「インディアン」戦争等と重ね合わせて描き出される。先日紹介した商船隊乗組員の抗議行動が示すように、ヨーロッパ的な植民地主義への反感をもつアメリカがなぜ「フロンティア」の開拓に躊躇せず、やがてヴェトナム(やイラク)にまで派兵することになったか。その要因が「マニフェスト・デスティニー」という国民的な神話(とそれに結びついた人種偏見)であるという分析は、正直なところあまり目新しいとは言えない。というか、誰でもすぐ思い浮かべるんじゃないだろうか。私としては後述する第5章がもっとも意義のある研究だと感じた。
第4章はいわゆる「帰還兵」問題と反戦運動の盛り上がりについて。特に帰還兵たちの反戦運動に焦点が当てられている。罪の意識に苛まれる帰還兵にとって、反戦運動を通じて知り合った仲間と自らの行為について語り合うことが大きな意味を持った、とされている。第5章「ベトナム戦没者記念碑とアメリカ社会」では、アメリカ社会が「負けた戦争」「汚い戦争」をどう受容したか(ないし受容しそこなったか)が問題とされる。ワシントンにある黒い壁のようなヴェトナム戦没者記念碑が物議をかもしたことは『負けた戦争の記憶 歴史のなかのヴェトナム戦争』(生井英考三省堂)などにも詳しいが、実はアメリカ全土には80年代後半の時点で300あまりの戦争記念碑・戦没者記念碑がつくられていた、という。著者はさまざまな記念碑を紹介しながら、ヴェトナム戦争に対するアメリカ社会の認識の変化を記述する。負けた戦争の、あるいは大義のない戦争の戦没者や帰還兵をどう処遇すべきか…これはもちろん日本にとっても他人事ではないし、逆に靖国神社を批判するアメリカ人も自らのヴェトナム戦争観を問われるはずである。国家によって戦場に駆り出された若者を再び迎え入れる責任が社会にはあるが、それは容易に戦場での残虐行為を免罪し、戦争そのものの不当性を隠蔽することにつながってしまう。実際、レーガン時代以降ヴェトナム戦争に関する「歴史修正主義」は勢いを増し*1、「ヴェトナム・シンドローム」からの脱却を唱えた(そうした動きなくして、イラク戦争、特に第二次イラク戦争は不可能だっただろう)。他方で、少数ながら戦没者記念碑にヴェトナム人の名が刻まれていないことに疑問を持つ人々も現われていること、を著者は指摘する。その代表が「もう一つのベトナム記念碑」を制作したクリス・バーデンであり、彼は電話帳で収集した4000人の名前を組み替えることで300万人分の名前を刻んだ戦没者記念碑をつくりあげた。実際の戦没者の名前を調べようとしない安易さを批判することもできようが、むしろ300万人が無名のままとどめられていることへの批判としてみることも可能であろう。

*1:この傾向は他方で多文化主義へのバックラッシュフェミニズムへのバックラッシュと結合している。実は戦没者記念碑をめぐってもジェンダー的、エスニック的な観点からの異議申し立てが行なわれており、従軍看護婦の彫像を使った記念碑も存在している。