『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』

林えいだい、『陸軍特攻・振武寮 生還者の収容施設』、東方出版


NHKETV特集で紹介された「振武寮」についてのルポ。沖縄決戦に向けて陸軍が編成した第六航空軍の特攻隊からは、機体の故障、悪天候や敵襲によって引き返したり不時着して体当たりを果たせずに終わるケースが少なからず出た。福岡女学院の寄宿舎を借り上げてそうした特攻隊員を収容した「振武寮」の、収容された側とした側(第六航空軍参謀)とへの取材からなる。作戦がうまくいかないことにいらだつ参謀からさんざんに殴打されたり侮辱されたりといった証言はあるが、他方で参謀の側にもある種の諦念があったのか、特操(特別操縦見習士官)出身者には干渉せず少飛(少年飛行兵)たちに矛先が向けられるなど、組織的な虐待ということはなかったようである(特操は幹部候補生試験合格者であるから少年飛行兵より年齢も上でおそらくは学歴も高く、扱いにくかったのであろう)。多数のものに自決を強要する、といった事態にならなかったのは救いと言える。
ただ、振武寮はともかくとして特攻という作戦のずさんさは本書で十分に明らかにされている。元参謀は特攻隊員の言い分を信用しないといい、死ぬ気がないから還ってきたんだと(80歳を超えた当時の取材でもなお)言い張るが、沖縄戦当時の日本の工業力の現状からすれば、故障機が多かったことに疑いの余地はない。12人で編成された第65振武隊は大阪で九七式戦闘機を受領するが、故障続きで25日かかって知覧についたのは8機だけだった。その際、第六航空軍の参謀(前出の参謀とは別人)から理不尽極まる罵声を浴びせられている(131ページ)。

「お前らは揃いも揃って、こんなおんぼろ飛行機を持ってきて、これで特攻に行けると思ってるのか。飛べない飛行機に平気で乗ってくるお前らは、それでも操縦士かっ! そんな不忠者はすぐ帰れっ!」

そのおんぼろを退役もさせず現に使っていたのは他ならぬ陸軍なのであるが。1941年正式採用の一式戦闘機を本書の取材対象者たちが「新鋭機」と述懐しているのがなんとも物悲しい。
生き残った特攻隊員たちのはなしも去ることながら、第六航空軍で編成を担当した元参謀への取材が非常に貴重である(取材直後に亡くなっている)。元特攻隊員からは大変に憎まれ、本人もそれを自覚して80歳になるまで自宅に拳銃と軍刀を置いていたというが、他方で本人の弁を信じるならば、特攻の効果には懐疑的だったのに第六航空軍では唯一の操縦士出身参謀で、最年少でもあったため、憎まれ役を押しつけられたという被害者意識も持っている。戦中の意識そのままに生還した特攻隊員を非難するかと思えば、次のように回顧してもいる(263ページ)。

「突っ込めばいい、体当たりを敢行して敵艦をやっつければ戦果だと、やれやれ主義で、出撃する特攻隊員たちの心情を汲み取ってやる思いやりがなかった。引き返せば国賊のようにののしった自分が恥ずかしい」

自責の念と自己正当化の間を揺れ動くこうした心理は、少なくない元将兵が共有しているのではないだろうか。


なお、元特攻隊員の経歴についての記述で、第6師団*1歩兵第16連隊に現役入隊とあるのは第13連隊のまちがいであろう。熊本にあったのは第13連隊で、第16連隊は新発田で編成された、第2師団所属の歩兵連隊だからである(『日本陸軍歩兵連隊』、新人物往来社、を参考にした)。

*1:この数日、妙に縁がある