花園一郎、『軍法会議』その2

昨日紹介した『軍法会議』の目次。

 はじめに 


軍法会議法務官
 人事命令/軍の横行/精神のわるい奴/国民皆兵/人営/申告/海軍軍法会議/構成/戦況
 /上級将校の人軍/敗戦の予測/意見具申/軍閥/法務官/枠の中の権限/中支第六師団
飢餓の島
 ソロモン海域/陸海軍の対立/輸送隊/マワレカ兵站/野心横行/飢餓/桃太郎農園
処刑
 上級将校の特権/抗命/逃亡/第一回公判/士気喪失/軍参謀長の介入/死刑/叛乱/
 自決強要/誤判
捕虜収容所
 敗戦/最後の軍法会議/後始末/卑屈さ/捕虜/不敬罪/重謹慎/内山少佐事件/氷川丸
吉池裁判後書
 滝口元裁判長/青木元大尉/厚生省援護局/坂田メモ/虚言/宣誓/八個の土盛/
 結城論文に対する私の立場


さいごに

「古池裁判」については後述。次に「はじめに」。

はじめに
 私は軍法会議の法務官をやりながら自分の無力に焦立った。裁判官には不告不理則がある。起訴された被告を法廷で裁くだけで、それ以外に口出しが出来ない。干渉を排除する努力はしたが、それだけの事である。
 自分の守備範囲を如何に良識と理性の場になし得たとしても、不法や無法がその外で猛威をふるっていた。検察官も憲兵隊長も批判力のない体制順応者であり、私は権限逸脱をあえてして、軍参謀長を動かそうと意見具申をしたが、相手を見そこなっていた。彼自身が兇暴な殺人犯であった。
 真○勲や越○六郎その他の部下殺人は部隊長権限として看過されてよいものであろうか。それは殺人罪ではないか。
 さらに大規模な殺人――飢餓による大量死を発生させた戦争指導者の責任はどう裁かれるのか。大量餓死を出した無意味無思慮な用兵は殺人罪ではないのか。日本の国民兵たちは太平洋海域、否、全戦域で敵の弾よりも、日本の職業軍人の手で、より多く殺されたのだ。不必要な作戦発起もそうである。そのほか世人の眼のとどかない戦場で、職業軍人天皇の名を背負って行った数多い階級と権限の乱用、暴行、自決強要もあった。これ等の事を世間に告発しようと、かねがね私は心の中で目論んでいた。
 ○田八雄、大○保任両参謀が、私を不敬罪にひっかけて殺そう、帰国させずに消し去ろうと謀ったのは、○田中佐が私の戦争中の言動から意図を見抜いていたのだろう。職業軍人がこの島で行った数数の悪行非行が曝露されては一大事と、一番危険な私を消して防ごうとしたのである。両参謀の暴行を受けながら、敵ながら天晴れな炯眼だ、おれの意図を見抜いているな、と考えていた。すべては帰国してからの事と心中でうなずいていた。
 しかし敗戦後の世情は、みじめな廃墟の中で、何事も連合軍の支配下にあり、問題を提起してもとり上げられる雰囲気ではなかった。安倍能成氏等がとり上げた。“メレヨン島事件”も、さしたる反響をよぶ事なく消えていった。この種の軍件が全戦域にありふれていただけに、かえって注目を集める事ができなかったのだ。
 しかし戦死し、あるいは餓死した、多くの戦友のことを生涯忘れることはない。特権をふりまわした職業軍人たちへの怒りは、今日も消えることはない。そして生き残った私がなさねばならぬと思う気持は、戦後三十年たった今、かえって強くなってきている。
 この手記はすべて実名を用いた。今さらの告発であるが、そのねらいは、戦場の軍法会議で処刑され、今なおうちすてられたままにおかれている人々の不公平な実態を浮きぼりにするためにほかならない。

「すべて実名を用いた」とある通りこの「はじめに」でも実名が挙げられているのだが、ここでは氏名の一字を○で伏せておいた。本書全体を読めば当該人物についての筆者の主張の妥当性について検討しうるものの、「はじめに」だけの記述ではそれが不可能だからである。
“メレヨン島事件“については、以前に言及した吉田裕による『餓死した英霊たち』(藤原彰、青木書店)の書評にちょうど紹介がある。

 どれだけ下級兵士の人権が無視されていたかの一つの例となるのは、中部太平洋のメレヨン島の例である。ここでは補給も途絶し、米軍からも無視される中で敗戦にいたるまで飢餓との闘いが続いたのであるが、同島守備隊は最後まで「軍紀厳正」だったということで、昭和天皇裕仁からとくに賞賛の言葉が与えられたのである。
 しかし「軍紀厳正」の実態は、飢えのために食糧を盗み出そうと試みた兵士に対する裁判によらない処刑の乱発で保たれていたものだった。食糧の配給も将校と兵士の間では大きな差が付けられていた。その結果、同島からの陸軍の生還者は准士官以上の階級では七割であるのに対し、兵士は二割に満たなかったのである。すなわち餓死の運命は平等に軍人を襲ったわけではなく、明確な階級差がついていた。下級であればあるほど、餓死の比率も多くなったのだ。

また、メレヨン島守備隊に関する資料が昨年防衛研究所図書館で新たに公開されたようである。


次に「さいごに」。明らかな誤植を訂正してある。

さいごに
 かつて軍の法務に多年たずさわった現職の法務部将校は数多い。これらの人々の軍法務にかかる知識経験には私のそれは到底およばぬことは明らかであるが、この人々はいわば旧軍の共犯者、悪名高き昭和軍閥の片割れである。この人たちが生涯真実を書く事はまずあるまい。彼等は過去の無批判な肯定者であるか、少くとも軍のおかした、また自分たちの手伝った数かずの悪行は全く伏せておきたい立場にある。それに加えてこの人たちは後方にあって惨烈な第一線の経験がない。
 この点、私にはブーゲンビル島三年の、世人の眼に届かない軍の実状の体験がある。第一線での軍法会議の実行を自ら経験し、単に皮相的な抽象論では把握し難い、軍法会議の実態をさらけ出す事ができる。私と同じ様に昭和二十年春以降、召集将校であって第一線で法務官の職務を勤めた人々も多いが、思いのほか、当時の軍支配の体制内にあって、機械的な法適用の技術者になっていた人が大かたであったように見うけられる。
 裁判官には不告不理則がある。すなわち公訴提起のあった対象のみを処理する、起訴なければ裁かずの原則は、裁判の独立をまもる防壁であるがまた避難壁でもある。このたてまえの内側にあるかぎり、安泰であり、純粋に法理念の通用する一劃を維持しうる事にもなっていた。
 しかし軍の実態は果してそうであったろうか。この壁をこえて、圧迫や介入がなかったであろうか。外部からの雑音に動かされずに自己の真正な法的判断だけで職務を遂行した、と、今誇言し得る人が、法務官の職務にあった人たちの中にどれだけ見出し得るであろうか。私は今顧みて、その数少ないうちの一人であった、と自負し得る。軍法会議について今筆をとるにはさらに積極的理由もあった。それは旧軍人の軍法会議裁判は二十世紀の法社会に生残った中世的暗黒裁判、政治裁判であった事をひろく知ってほしい私個人の衝動があったことだ。
 軍は暗い閉鎖された社会である。それは殺人、掠奪、謀略等の悪業をもっぱら目的とする団体であり、その目的のために人を教化し実行させる組織である。
 ことに、昭和の日本軍はもはやその誇称するような“皇軍”ではなかった。その美しい修飾とは全く無縁の、殺人と侵掠を嗜み、あえて無名の師をおこして快をむさぼる職業軍賊が国民を強制徴集してつくりあげた殺人強盗団に変貌していた――そしてそのてがらに国家(天皇)は多額の恩金と高位の勲章をあたえた――のだし、軍法務――軍法会議はその邪悪な野望達成に国民を強制してかり立てる一手段に歪曲利用されたのである事を、六年の従軍歴、半年だが、軍法会議担当の実際の体験を通じて痛感した。
 軍の法務と警務、それは軍の紀律維持を唯一至高の本有の目的とするものである。にもかかわらず昭和に入って、顕著に、それは本来の目的を逸脱して、軍の、換言すれば職業軍人集団の威信の維持と誇示(威嚇)に職能をすりかえてしまった。法務官は軍法務の目的を拡大して、軍の戦力毀損防止にあると称した事を、当時の関係者が反論できるであろうか。
 現在、自衛隊の法務警務ははたしてどうか。一般市民に手をかける事はまずできない現在の体制では、自衛隊内の紀律維持を専らつとめる事になるが、たてまえはどうあろうとも、自衛隊内の非違の、特に上級職業自衛官群の非違の世間への漏洩を防ぐ事、もみ消し、陰蔽が職務の主体になっているであろう事は、自衛隊内の警務課長、法務課長や法務官が「一般自衛官をもって充てられ」ているかぎりは、特に現自衛隊幹部が昭和十年代の、日本陸海軍が最も邪悪兇暴であった時期に教育された人々であるから、その悪しき伝習をそのまま再現しているであろうことは推測に難くない。
 一度しみついた考えは変わるものではない。また彼等の追憶は、強勢なりし時代の軍の再現をつよく期している事は、自衛隊の諸方針に明らかに打ち出されている。まして強制徴集でなく応募制の現在では、一般社会人がほとんど関心のない部分社会である。法務省検察庁も本務多忙で、この方はもっぱら任せっぱなしである。私は、ある時期、旧軍の体質のままいつの間にか、国民の手に負えぬ程強大になった軍が、突如国民にのしかかってくる事を危惧する。
 平時にあって軍隊(自衛隊)は国費の浪費者であり、国民の厄介者だ。彼等は平時は肩身が狭い。何せ国費毎年一兆円の大浪費者である。戦争になると濾かに存在理由と存在価値を発揮できる――だからそれは本来好戦的性格をもっている。そしてなお毎年増額を説う。軍費は常に膨脹する性格をもっている。そのために、平時は「修飾」が必要だ。国土防衛とか国民の生命財産の保護とかがそれだ。しかし軍人の念頭にそのような使命感がない事は、かつて前大戦であれだけ一般市民の死傷者を出しても平気だったし、関東軍が開拓民団の婦女や子供まで全く顧慮する事なく捨ててしまった事でわかる。彼等はかつて天皇と同じ軍服を着用している事を誇り、「鬼畜米英」に国民をけしかけた同じ人間が、戦後はマッカーサーと同じ軍服を着て、アメリカの尖兵になって恬として恥じない。また世が変われば、今度はソ連中共と同じ軍服を着る事を誰が否定できるであろうか。彼等は、国民から金を捲き上げて戦争で飯が食えるなら、天皇でもアメリカでもソ連でもおし戴くものではないのか。
 彼等はつぎに戦争がおきれば日本人が何千万人死ぬかを平然と討議しながら、戦争を目標に国費を浪費して準備するのだ。そして戦闘可能の態勢があれば、戦争にずりこむのである。まえの大戦もなまじ海軍の戦備がととのっていたから、やりたくはなくても、やらないわけにはいかなかった(宇垣纏中将)のであった。今の自衛隊の法務警務の体制はこのような膨脹する自衛隊を監視し、抑止し得るようにはなっていない。私の危惧はそこにある。

後半の自衛隊批判は、もちろん執筆当時の著者の認識と自衛隊の実情を反映したものであり、旧軍関係者がいなくなった現在の自衛隊については別途検証が必要である。ただ、『戦史叢書』に対する加登川幸太郎氏の批判などとあわせて考えても、自衛隊が旧軍に対する痛切な反省のうえに設立されたとはとても言えそうにない。


さて上で「後述」としておいた「吉池裁判」について。本書の(やや曖昧な)記述を総合すると、これは1945年8月12日に2名の軍曹が敵前逃亡で有罪となり処刑された事例に関するものである。1973年の第71回国会(衆議院)法務委員会の議事録に、この問題についての言及があった。

○小林(進)委員 ただいま委員長からのお話のありましたとおり、戦時中における軍事裁判、軍法会議の問題を主体にして質問を申し上げたいと存じますが、この問題は、私は衆議院予算委員会でも取り上げ、なおかつこの法務委員会でも再度取り上げておりますので、御列席をいただいた大臣各位には、もう私の質問の内容は大かた御推察をいただいておると存じます。けれども、参考人の先生方には、あるいは問題の核心をおつかみになっていないかと存じますので、ごく簡単に、この問題の発生から申し上げて御理解をいただきたいと思うのであります。
 実は、私がこの問題を国会で取り上げるに至りましたそもそもの動機は、吉池事件という問題がございまして、昭和二十年の八月の十二日であります。まさに天皇詔勅が出る三日前、ブーゲンビル島という南方軍の駐留いたしますその島で、吉池という軍曹が敵前逃亡という軍刑法で死刑の処罰をされた。この問題に対して遺族、この吉池軍曹の奥さんでありますが、私の主人は敵前逃亡死、軍刑法で死刑になるようなそういう方ではない、それは間違いであるということで、実は現在まだ東京地方裁判所に無罪であるということを訴訟されておる。訴訟の相手は厚生大臣であります。
(…)
○小林(進)委員 総務長官は十時半でございますか、次の委員会に行かれる御都合があるということでございますので、私は参考人のいまの貴重な御意見がございました、その御意見とあわせて実は大臣にお伺いしたがったのでありますけれども、貴重な参考人のお話を承りながらまたあなたの意見を承るということができないのは残念でございますけれども、前後いたしますがひとつあなたにだけ一問御質問いたしたいと思います。
 ともかく戦時中における軍事裁判によって処刑をされて、そしてまだ差別待遇を受けている者は、大体推計ですが陸海軍合わせまして五万人いらっしゃる。その中でも、あなた方は、いや、恩赦でそれはもう権利を復活したじゃないか、あるいは十年たったら一般刑法の規定に基づいて罪名は消えたじゃないか、だから実害はないじゃないかというようなことをおっしゃるのですが、実はそうじゃない。あなたがおやりになっている恩給法に基づいても、まだやはりそういう軍事裁判に処せられたために恩給ももらえない、遺族は遺族扶助料ももらえないというような方々がたくさんいらっしゃる。その資料を持ってこいと言うのだけれども、そういういまの政府の恥部に関するようなことは何だかんだと言ってなかなか資料を出さない。これは官僚のサボタージュですからね。そういうようなことになっておりますが、私のところにはそういう方々がたくさんだずねてきているわけです。その中には、たとえて言えば、恩給をなぜもらえないか、それは軍刑法でも三年以上の刑罰に処せられた者はだめだ、いわゆる恩赦に基づいて、三年以下の刑罰に処せられた者はひとつ恩給をやろう、遺族扶助料もやろう、こういうことになっておる。

本書の著者花園一郎はこの委員会に参考人として出席している。

○小林(進)委員 たいへん貴重な、胸を打つような真実のおことばを拝聴いたしまして、私もますますこの仕事がたいへん重大であるという感じを受けたわけでございますが、先生には、またあらためてひとつ後ほどお伺いさせていただきます。
 次に花園先生にお伺いをいたしたいと思うのでございますが、先生は悲惨な戦地において、特にブーゲンビル島において直接吉池軍曹の問題にも関連をされておりまするし、軍法会議を事実上執行された方でございますので、現地の軍法会議の実情については一番経験が深いわけであります。実際にみずから軍法会議を行なわれたその体験について、ひとつ率直な経験ないし今日の御心境等をお聞かせ願えますれば幸いと思います。
○花園参考人 ただいま小林進委員から御要請を受けましたが、私が本日呼ばれましたのは、いわゆる軍法会議問題の発端になりました吉池軍曹事件――私はいわゆる職業軍人ではございませんで、兵役法の規定によって現役入営し、現地召集のまま六年間を軍隊に従事したわけでございまして、その後半の三年間ブーゲンビル島におった。そうして軍法会議法の改定に伴いまして、一般将校の中から法務官を任命するということになりまして、私は二十年の三月以降ちょうど戦争が終わりますまで軍法会議の法務官職務を取り扱っておりました。その関係で吉池軍曹事件は私が裁判官たる法務官として関与した事件でございますので、その面からお呼び出しをいただいたわけでございます。
 ソロモンの実況を申しますと、一番痛切に感じますのは、そういった飢餓の状態に追い込まれたソロモンといった島の中で、そういった軍規犯罪を犯しました諸君が、一般市民としてはおそらくは立ち小便をするにしても巡査のほうを気にするというくらいな善良な市民でございます。おそらく戦争などに引っぱり出されなければ、一生警察とか裁判というものには関係なしに済んだであろうと思われる純情な人々が、ああいった島で非常に悲惨な飢餓の状態に追い込まれて、それで食糧を持って敵前逃亡する、私は職務上そういったものを、起訴されて法廷に出てまいりますにつれまして一々これを裁き、判決を手伝ったわけでございますけれども、その間非常に痛切に感じましたのは、この情勢に追い込んだのはだれなんだ、これは実は一カ月ほど前に、当時のブーゲンビル島の師団長であり後に軍司令官に昇進されました神田中将とも会見いたし、神田さんとは私は六師団以来四年半六師団司令部の部員としてつき合ったわけでございますが、神田さん自身が、あれは君、大本営の責任だよ、あのとおりの飢餓の状態に軍を置いて戦争しろというのは大本営の責任なんだ、おれも厚生省がもう少し何か計らってやってもらえぬものかと思うのだけれども、官僚というやつは度しがたいと言って苦笑いしておられたんですが、あわせて、私に言わせますと、そういった飢餓の状態の中でなぜむちゃな作戦をしたんですか――相手が八十を過ぎた御老人ですから、あまり言うとからだにこたえると思って言いませんけれども、やはりこれは統帥の失敗であり、現地の最高指揮官の責任である。しかし、軍律というのはそういうものではございませんで、やはり一つの陸軍刑法上の罪を犯しますと、法廷に連れてこられる。これはやはり条文どおりに処刑せざるを得ませんし、当時の非常に苛烈な状態の中でも大多数の下士官、兵がまじめに働いて戦っておるわけでございますから、その意味でこれは落後者でございまして、これはやはり厳重に処罰せざるを得ない。したがいまして、軍刑法というのは一般に重いものでございまして、その処刑は非常に重刑を科さざるを得なかったわけでございますが、しかし、そういった状態の中で責任をしょうべき最高指揮官というのは、戦後もきわめてのんきに、優雅に暮らしておられる。神田さんにはちょっと気の毒な言い方でございますけれども、りっぱな方でございましたから――。
 そういったことを感じますと同時に、私が執行しておりまして非常に痛感いたしましたのは、そういった一般状況の中で起きます犯罪、いろいろございますけれども、階級差があり過ぎるということです。ただいま、当時陸軍省の法務局におられた菅野さんからの御説明がございましたが、軍法会議を常に軍の高等司令は携行しておった、またそこにおいては指揮官がどうあろうとも、軍法の立場から厳重、厳正に行なわれた、もちろん作戦目的を遂行するために現地指揮官の意向というものは相当尊重されたのだ、これは当然でございましょう。そういうことを言っておられますが、私が痛感いたしましたのは、階級差がはっきりしておる。軍法会議というものは、あくまで軍の統帥指揮のためには下のほうにかなりきついものになるのは当然でございますが、日本の軍法会議というものの実態は、上級将校に非常に甘くできておった。たいへん菅野さんに申しわけないのでありますが、それを実感したわけでございます。
 その第一は、一番いけない――いけないというのは語弊がございますが、軍法会議の起訴提起命令権と不起訴処分命令権が長官にございます。長官というのは軍法会議開廷命令権を持っておる方でございますが、そうなりますと、下のほうはむぞうさに検察官の上申どおりに起訴されるわけでございますけれども、あいにく上のほうはその段階においてほとんどつぶされてしまう。私は裁判官でございますから、起訴以前の事件にタッチすることは当然できません。したがいまして、ひどいものだと思っておっても、やはり出てきた事件を裁くだけが裁判官たる法務官でございますから、これは逃げるわけではございませんが、まことにやむを得ないのでございますけれども、私が見ておりますと、菅野さんを横に置いておりますと非常に言いにくいのでございますが、どうもやはりいわゆる現役軍人と申しますか、そういった軍閥グループに対する一つのなれ合い的な相互保護があるという感じを露骨に感じました。ブーゲンビル一つの例をもって全般を推すことは非常に危険だと思いますが、しかしながら、ある意味では共通点があるかどうかは皆さんの御判断におまかせしなければならぬ問題でございますけれども、たとえば二十三連隊長の辱職抗命、騎兵六連隊長の凌虐致死、また四十五連隊長の連続殺人、これはそれぞれ私はっきり承知しておるわけでございますけれども、そういった事件は全部全然出てこない。これはなぜかと申しますと、一つは憲兵隊が警務をやるわけでございますけれども、憲兵隊自身がそのような上級官職についておられる方については手を出し得ない。一方にはこれは指揮統帥権の保護がございます。保護といいますのは、指揮上必要なんだということばで一切葬られるわけでございますが、そういったあり方の中でで、下士官、兵だけが非常にきつく処理される。階級的な差別が露骨に出た。はっきり言いますと、大隊長クラスで内山というのは、士官学校出の方ですけれども、非常に憶病な方で、しょっちゅう逃げてしまうんです。師団参謀長の江島さんが、大佐でしたが、あれはもうお前のほうに回すからなとおっしゃるから、それはけっこうなことだ、せっかく軍律維持上軍法会議をおやりになるなら階級差別だけはやめてもらいたい、階級を問わずおやりになるのはたいへんけっこうだ、いまのままでは下士官、兵いじめにしかなりませんからねと言ったら、ちょっと苦い顔をされたんですが、これは来るなと思ったら、これも来ない。
 私実は、陸軍省法務局の方をそばに置いてたいへん言いにくいのでございますけれども、高等司令部におりました関係上、陸軍省から送付されますいろんな書類は一々見ておりますけれども、法務局では毎年犯罪統計をつくっておられる。それによると、兵隊の犯罪率が一番高い。それから下士官がそれに次ぐ。その中でも召集のほうが現役下士官より高い。その上に将校の犯罪率がさらに低い。こういうことになっております。しかし、その将校の中でも陸軍士官学校卒業は、最もりっぱで犯罪率が低いことになっておりましたけれども、私が見るところでは、これが一番高い、逆でございます。とにかく佐官クラスを例にとりますと、ブーゲンビル島第六師団の佐官クラスの犯罪率は一〇%でございます。これはおそろしく高いものでございます。そういった実況でございますが、現実に軍法会議に引っぱり出されるのは、そのほうはゼロでございます。これは階級差別があまりにも露骨である。これは当時の昭和軍人の軍人グループというものが、明らかに軍法会議を私兵視といいますか、要するに兵隊を統御していくための一つの材料にお使いになった、こう思わざるを得ないのでございます。
 それからもう一つ、ただいま必ず軍法会議を作戦軍は携行しておったという菅野さんのおことばがございましたが、これもいささか実態とは違っておりまして、法務官の皆さんというのは、いわば半分文官、私も主計でございましたから、その意味では、いわば非戦闘員側でございますけれども、そういった文官的な素質が非常におありになる。したがって、あまりこわそうなところにはおいでにならない。だから軍法会議が事実上開けない。これが二十年の春の法律改正で一般将校から法務官を任用できるというたてまえができましてから、ブーゲンビルにも軍法会議が事実上置けるようになりました。また私がやったわけでございますけれども、その間は軍法会議が合法的な開廷はできませんでした。そういった状況における第一線というのは、私、苛烈なところにおったわけでございますけれども、どうしても部隊の任意処理になる。そうなりますと、各部隊は部隊長権限と申しますが、ちょっとこういう権限はあるとは思わないのでありますが、かってに虐待して殺してしまうわけです。もちろん、かっこうの上では適当に自決なり、または戦病死なり戦死なり、または決死隊に出て事実上戦死させて名誉を保たせる場合もございますけれども、そういったくふうがなされる。そうなりますと、私、終戦当時に非常に痛感しましたのは、結局刑名を残してしまったのは文字どおり一握りであった。しかし同じような犯罪行為が非常に多発しておったが、それは隠されておる。そうなりますと、いわゆる刑名をしょっておる一握りの人というのは、実はちょっと語弊がございますけれども、ほんとうに氷山の一角みたいなもの。この方々だけが、実は相変わらず、ただいま小林先生が言われましたとおりに汚名に泣く。これは非常に不公平ではないか。法を守っておられる法務省の方、または旧陸海軍省を引き継がれた厚生省援護局の方は、そういったそれぞれのお立場から、それでもしようがないじゃないかという御意見もおありのようでございますけれども、そこで基本的にもう一ぺん考え直してみますと、この戦争の基本的な戦争責任というものとの関連で考えざるを得ない。
 一つは、戦争責任というものは、一般に非常に混淆して用いられておるのですけれども、対外的な戦争責任というものは、いわゆる極東軍事裁判その他で戦勝国が裁いたわけでございますけれども、私が特に国民として考えなければならぬ問題は対内責任ではないのか。要するに戦争の是非はなかなかむずかしい問題でございましょうけれども、少なくともそういった戦争によって日本人を、戦闘員はもちろん、非戦闘員にまで、一般市民にまで非常な大きな犠牲を生じたということ。これは、いわゆる国の指揮階層の高級階層、上級階層の責任問題ではなかったか。そうなりますと、やはりその責任ははっきりされなければならなかったはずです。これは、たまたま占領されておった期間が七年も続きましたので、その間に、日本人はそういったものに弱いようでございますから、何となく手をつけられずにずるずるときたわけでございましょうけれども、この間の国内責任の追及という面ではなかったと言うべきではなかったか。同時に、そういった責任者が、戦後においてはむしろ優雅に暮らしておるというのは、非常に語弊がございますけれども、一々それを――いつか小林さんが言われましたように、やれ東條大将の遺族が百万円もらっておるそうだ、そういうことはずいぶんけしからぬ話だということにしても、それを一々取り上げるということもおとなげないわけでございますけれども、しかし一方で戦時中のそういう犯罪で泣いておる。それを、やれ敵前逃亡は許してやるの、戦地強姦はいかぬのといったこまかい法技術的な視野からの差別とか恩赦の適用の是非とかいうものとは違って、このような戦争で事実上――何も好きこのんであんな蛮地まで行く人はいないのですから、そういった人たちをなぜそういう境遇に落とし込んでおくのか。その面から何らかの政治判断に基づく、まさに立法府のお役目だと思いますが、措置ができないものか。行政なり司法なりの関係で法規を守っておられる官庁の責任としてはなかなかできにくいことでございましょうけれども、やはりこれは国会議員の皆さんのなさるべきことではないか、かように存じておる次第でございます。
(中略)
○花園参考人 私も元役人をやっておりましたので、法規的な面で、いわゆる過去の判決が死因の事実を表明するわけですが、そういった死因について、これをなかったとするというのは、やはり問題があろうと思います。やはり私としては、法務大臣が言われましたとおりに、国が戦争責任についての何らかの意思表明をして、要するにその間のそういった軍法上の刑事犯罪については、ある時点から効果を失うというふうなやり方が一番穏当なのではないか。それについては、たとえば新憲法が公布された時期とか、またはサンフランシスコ講和条約が発効した時期とか、そこら辺までは当然さかのぼり得る問題ではないかと思うのでございますけれども、そこら辺にそういった一つの時点を置きまして――そういった宣言的な意味を持つ法律というのは、ある意味では国家意思の表明だと思うのであります。要するに戦争に対しては、国がこういうことで遺憾の意を表するという趣旨にもなるのかと思うのでありますが、そのようにするのが、せい一ぱいなのではないか。ただ私としては、いや、あの連中はかわいそうだから金をやったのだというふうな、いわば物質主義的な感覚だけではちょっと無理だ、やはりそこに国家が名誉を回復しますというような発言が正式になされるべきじゃないか、それがいまの時点までまいりますと、限界じゃなかろうかと愚考いたします。


「はじめに」「さいごに」でも、国会での参考人としての証言でも旧軍や旧軍の軍法会議については非常に厳しい批判が述べられているわけだが、他方で「軍の論理」を全否定しているわけでもないことは、上で引用した証言中の次の箇所からも明らかだ。

しかし、軍律というのはそういうものではございませんで、やはり一つの陸軍刑法上の罪を犯しますと、法廷に連れてこられる。これはやはり条文どおりに処刑せざるを得ませんし、当時の非常に苛烈な状態の中でも大多数の下士官、兵がまじめに働いて戦っておるわけでございますから、その意味でこれは落後者でございまして、これはやはり厳重に処罰せざるを得ない。

軍法会議』には(1)降伏前に自分が法務官として関与した裁判、(2)降伏直後に自分が法務官として関与した裁判、(3)降伏前に行なわれた、著者が関与していない裁判、(4)オーストラリア軍の捕虜となってから、収容所で行なわれた軍法会議(著者は関与していない)の4類型が登場する。このうち(4)については「軍司令官には軍法会議開廷権がない」という理由ではっきりと批判している。「法務関係の友人」たちの評として「牢名主の私刑」とも記している。ところが(2)については、開廷したくはなかったし死刑判決も出したくなかったが、しかし出さずにはおれなかった、しかたなかった、という立場をとっているのである(サボタージュで開廷を一日遅らせたり、死刑になりそうな軍曹3名のうち1名については情状酌量の口実をひねり出して有期刑にしたり、といった努力はしているが)。被告の脱走直後に部隊は総攻撃を行なっており、脱走兵に対する生き残りの将兵たちの冷たい目を著者もまた共有していたとも言える。(4)については「非合法」として明確に批判しているし、軍法会議全般についてもその差別性等を批判してはいるが、(1)や(2)、特に後者を「非合法ではなかった」からとして、また「不告不理則」によって正当化したのでは、アイヒマンと同じ道を歩む可能性を否定できないだろう。